『一発逆転』通信

あなたの生活に豊かな彩を・・・ Jesus, You're the Center of my joy.

今日のかて

今日のかて 「生きている主の証人」

【使徒行伝26:6-8】
26:6 今わたしは、神がわたしたちの先祖に約束なさった希望をいだいているために、裁判を受けているのであります。
26:7 わたしたちの十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、その約束を得ようと望んでいるのです。王よ、この希望のために、わたしはユダヤ人から訴えられています。
26:8 神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。

人は今生きておられ、実際にこの地にまた私自身や人々の人生に関わりを持って、働きかけられる神を知った時、人生が変わります。
それはそれまでの人生が【使徒行伝26:4,5】とパウロ自身が証しているように、彼の中で決して神に逆らおうとして信仰生活を送って来たのではなく、むしろ厳格に保とうとして来たものであり、それを正しい道だと信じて歩んで来たのだとしても。
そして、彼は信仰がなかったからではなく、熱心だったからこそ【使徒行伝26:9-11】と語るように彼はクリスチャン達に酷い迫害を加え続けてきたのだとしても。
しかし、彼は今生きておられ直接パウロの人生に働きかける、主イエスの語りかけを直接聞き、イエスキリストに出会って、彼の人生は根底からその全てが変わってしまったのです。彼は主イエスを知ったのです。
このことは私達の信仰生活にとって、とても重要なことです。
私達がいくらキリスト教の信仰に熱心で、キリスト教の慣習に、またキリスト教の知識を積み、精通していても、またそれらにどれほど忠実であったとしても、後に彼が【ピリピ3:5-8】と語っているように、主イエスキリストを本当に知った時、その全てが無意味なものであることを知るのです。
キリストを知るということの価値に打ち振るえ、人生の全ての考え方が変わってしまうのです。
主イエスが召す生き方以外を生きようとは決して思えなくなってしまうのです。
人の価値をはるかに超えた、神の御思いの尊さに、その広さ、長さ、高さ、深さに、人の思いは打ち砕かれてしまうのです。そしてこの方のみを心から「私の主人である」とキリストの奴隷としての生き方を、愛の故に選ばざるを得なくなってしまうのです。
主の愛の深さと、その方の偉大さを知り、さらにはそこから自らに望まれた、主ご自身が私の人生を歩かれ、主ご自身が私の人生の中に主の栄光のみを現すという生き方に、捕らえられてしまうのです。
パウロはそのように主イエスの僕としての生涯を、愛をもって誇り生き続け、自らの人生を全うしたのです。【ローマ1:1】
ヨハネはこの主との交わりを【1ヨハネ1:1-4】とまるでここに生きている神と、深く深く今現在交わり続けて知っている神について表すように、彼自身が知るイエスキリストを証ししているのです。
そこに命があるのです。
いやそこにしか命は存在していません。
その命しか人を生かすことができない、この命たる神の霊から発せられた言葉のみが人を生かすのです。

【ヨハネ6:63】
6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。

ですから、パウロの真実の証しは、主イエスキリストを真に知る者として、命を持って、アグリッパ王を刺し貫いたのです。十字架に向かって。【使徒行伝26:28】
そして、今この言葉がこの地に必要とされています。
なぜなら、世は私達が思う以上に罪へと進み、誰も止めることのできない滅びの結論へと日々突き進んでいるのです。
時はすでに熟しているのです。【ヨハネ4:35-38】
誰がこの言葉を託され、この言葉を伝えるでしょうか。【マタイ24:42-51】
キリストを知る全ての者は、今この言葉を委ねられています。
主をそのように知らない者にも、主はご自身に近づき、ご自身に全てをささげて従い来る者に、ご自身と共に親しく交わりながら生きる弟子としての道を用意されるのです。【マタイ19:21-29】
何をすべきか主に祈りましょう。
その時主はパウロに語りかけられたように、私達が主の僕としてするべきことを語りかけてくださるでしょう。それがたとえ実際に言葉をもって伝えることでなかったとしても、その姿で主イエスの言葉を語り証しするでしょう。
共に今生きておられる主イエスにひざまづき祈りましょう。


※聖書の参照箇所です。
ご一緒にご覧ください。

【ピリピ3:5-8】
3:5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
3:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。

【ローマ1:1】
1:1 キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから__

【1ヨハネ1:1-4】
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について__
1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである__
1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
1:4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。

【ヨハネ4:35-38】
4:35 あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。
4:36 刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。
4:37 そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。
4:38 わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。

【マタイ24:42-51】
24:42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
24:43 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
24:44 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
24:45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
24:46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。
24:47 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
24:48 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、
24:49 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、
24:50 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、
24:51 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

【マタイ19:21-29】
19:21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
19:23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
19:24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。
19:26 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。
19:27 そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。
19:28 イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。
19:29 おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。

【使徒行伝26:2-29】
26:2 「アグリッパ王よ、ユダヤ人たちから訴えられているすべての事に関して、きょう、あなたの前で弁明することになったのは、わたしのしあわせに思うところであります。
26:3 あなたは、ユダヤ人のあらゆる慣例や問題を、よく知り抜いておられるかたですから、わたしの申すことを、寛大なお心で聞いていただきたいのです。
26:4 さて、わたしは若い時代には、初めから自国民の中で、またエルサレムで過ごしたのですが、そのころのわたしの生活ぶりは、ユダヤ人がみんなよく知っているところです。
26:5 彼らはわたしを初めから知っているので、証言しようと思えばできるのですが、わたしは、わたしたちの宗教の最も厳格な派にしたがって、パリサイ人としての生活をしていたのです。
26:6 今わたしは、神がわたしたちの先祖に約束なさった希望をいだいているために、裁判を受けているのであります。
26:7 わたしたちの十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、その約束を得ようと望んでいるのです。王よ、この希望のために、わたしはユダヤ人から訴えられています。
26:8 神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。
26:9 わたし自身も、以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって反対の行動をすべきだと、思っていました。
26:10 そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました。
26:11 それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました。
26:12 こうして、わたしは、祭司長たちから権限と委任とを受けて、ダマスコに行ったのですが、
26:13 王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。
26:14 わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。
26:15 そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、主は言われた、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 さあ、起きあがって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。
26:17 わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、
26:18 それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。
26:19 それですから、アグリッパ王よ、わたしは天よりの啓示にそむかず、
26:20 まず初めにダマスコにいる人々に、それからエルサレムにいる人々、さらにユダヤ全土、ならびに異邦人たちに、悔い改めて神に立ち帰り、悔改めにふさわしいわざを行うようにと、説き勧めました。
26:21 そのために、ユダヤ人は、わたしを宮で引き捕えて殺そうとしたのです。
26:22 しかし、わたしは今日に至るまで神の加護を受け、このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、預言者たちやモーセが、今後起るべきだと語ったことを、そのまま述べてきました。
26:23 すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです」。
26:24 パウロがこのように弁明をしていると、フェストは大声で言った、「パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている」。
26:25 パウロが言った、「フェスト閣下よ、わたしは気が狂ってはいません。わたしは、まじめな真実の言葉を語っているだけです。
26:26 王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対しても、率直に申し上げているのです。それは、片すみで行われたのではないのですから、一つとして、王が見のがされたことはないと信じます。
26:27 アグリッパ王よ、あなたは預言者を信じますか。信じておられると思います」。
26:28 アグリッパがパウロに言った、「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」。
26:29 パウロが言った、「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけでなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別ですが」。

今日のかて 「心を神と一つに」

【列王記上11:26ー28,37,38】
※この箇所に付随して今日は列王記上11-14章を参照して見てください。

主はヤラベアムをダビデと同様に王として選びました。
神からの彼の選びはダビデと同様に、寡婦の子というイスラエルの中の最も小さい一人であり、忘れ去られるような存在の一人でした。決して歴史の表舞台に出るような人ではなかったかも知れません。
そして、ダビデと同様に忠実に王に仕えるものとなりました。
やがて、ダビデがサウルに命を狙われたように、ソロモンに殺されそうになり、イスラエルがエジプトで長らえたようにエジプトに逃げて、やがてその試練を越えて、ソロモンから国を裂き渡され北イスラエルの王となるため、ソロモンの死後、イスラエルに帰ります。
彼の何が神を喜ばせたのかは私達にはわかりませんが、しかし確かにダビデの歩みと重なるように歩んだ、主に愛され選ばれた王であるという事が、その人生の歩みと神から約束された召しから伺い知ることができます。
問題はここからです。
神はなぜソロモン(正確にはソロモンの子レハベアムからですが)からヤラベアムにイスラエルの国を裂き渡されたのか。
それはソロモンの心が神から離れ、神に背くようになったからです。そしてその現れとして、彼は異邦の神々の祭壇を国に築きました。
彼は多くの異邦人の女達を愛し、彼女達が崇めた異邦の神々の祭壇をエルサレムに建てるに至ったのです。
もちろん神からソロモンは二度も警告を受けましたが、彼はそれを退け、彼の心は神を退け離れていったことがわかります。
つまりは、ソロモンの心が神のものではなくなったから、神はイスラエルの国をヤラベアムに裂き渡したのです。
残ったユダの国は、ダビデとの約束の故にダビデの子孫であるソロモンの子達に残したものに過ぎませんでした。
それをヤラベアムは目の当たりにし、それを理由としてヤラベアムにイスラエルの国を裂き渡すと約束されているのですから、ヤラベアムは如何に神に対して生きるべきか知っていたはずなのです。
しかし、結果はヤラベアム自身が自ら別の祭壇を建て、神に逆らう者となりました。
このことによって、ヤラベアムの子孫はこの地から消え失せることとなりました。
ここでわかることは神の約束は神が語られた通り必ずなります。確かにヤラベアムは北イスラエル王国の初代王となりました。
しかし、彼は神の言葉の全てには忠実ではありませんでした。
もしも彼の心が主だけのものであったなら、彼の目が主だけに注がれていたなら、彼は生涯に渡って神の言葉の全てに忠実に生きることができたでしょう。
でも、彼が王になった時、一度神の約束が成就した時、人の本心はここに現れます。ここに人の高慢と、その高慢の故に神に逆らい立つ心が現れる。
彼の心は王であることを如何に維持するかという所にあり、人々の関心を自らの方に向けようと、自らの得た王の力で、異なる祭壇を、異なる神を自ら造り出したのです。
このつまづきは北イスラエル王国が滅びるに至るまで続く重いものとなりましたし、またユダが滅び行く原因に先立ち、イスラエルが神から背を向ける姿をもってユダをも神から引き離す影響を与えた原因ともなりました。
だから、ヤラベアムの子孫は全て滅び、消滅させられたのです。
私達が神を愛し、神を喜ばせる時、神は私達を愛するがゆえ、私達を選び、神の約束と共に、神の召しを与えられます。
それは神の約束を成就するための大切な働きの召しです。
しかし、それが成就した時、自らに現された神の栄光や、与えられた地位、名誉を自らのものにせんと、心奪われるなら、そのことが神への心を失わせるのです。
神が自分をどれほど愛してくださったのか。
全てが愛すればこそ注がれた一方的な恵み故に神が成された御業であり、自らのものでは何もないこと。
そしてこれほど愛されたからこそ、神のみに心を向け、神だけのものとして神を愛し続けること。
それこそが神の約束を永遠に成就する鍵となります。
ただ単一に一つ心で(全き心で)神を愛し、その心が、その目が、永遠に神から離れないこと。その心が神の心と一つであり続けること。
それに勝って神の御業が成されることも、約束が成就することも、栄光が現されることもありません。

【歴代誌16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

ダビデはただそのように神を愛し続けたのです【列王記上9:4,5】。永遠に。そしてそのことが子孫に及ぶまでの祝福の約束となったのです。

あなたが神様から語りかけられた大切な約束の言葉は何ですか?
もう一度神の愛の原点を思い出し、自分の姿を見てみてください。
全てはそこから始まり、そこから永遠の歩みに至るのですから。


※今日の聖書箇所です。ご参照ください。

【列王記11:26ー28,37,38】
11:26 ゼレダのエフライムびとネバテの子ヤラベアムはソロモンの家来であったが、その母の名はゼルヤといって寡婦であった。彼もまたその手をあげて王に敵した。
11:27 彼が手をあげて、王に敵した事情はこうである。ソロモンはミロを築き、父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。
11:28 ヤラベアムは非常に手腕のある人であったが、ソロモンはこの若者がよく働くのを見て、彼にヨセフの家のすべての強制労働の監督をさせた。
 [中略]
11:37 わたしがあなたを選び、あなたはすべて心の望むところを治めて、イスラエルの上に王となるであろう。
11:38 もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。

【列王記上9:4,5】
9:4 あなたがもし、あなたの父ダビデが歩んだように全き心をもって正しくわたしの前に歩み、すべてわたしが命じたようにおこなって、わたしの定めと、おきてとを守るならば、
9:5 わたしは、あなたの父ダビデに約束して『イスラエルの王位にのぼる人があなたに欠けることはないであろう』と言ったように、あなたのイスラエルに王たる位をながく確保するであろう。

今日のかて 「主の愛に心奪われる」

【士師記14:18】
今日主が私達に語られているのはこの箇所ですが、まずはこの箇所の全体像を理解するため、できれば士師記14章全体に目を通してみてください。
ここにはいくつかのことが謎に包まれ語られていますが、この箇所こそもっとも意味有り気に見えて、謎の深い箇所と言えるでしょう。
彼が異邦人達に問うた謎は、実はこの花嫁によらなければ決して解くことができない神の奥義ということができるでしょう。
まずここが花婿、花嫁の宴ということから、結婚の奥義【エペソ5:31,32】がここに隠されているということがわかります。さらにはこの決してナジル人である者が結婚相手として選ぶことのない異邦人の娘を花嫁にすることが神の御旨にあったことを見るのであれば、まさに今の異邦人に与えられた恵みとしての今の教会とイエスキリストの結婚を意味に含んでいると見ることができるでしょう。(主イエス自身最後の晩餐で語られた言葉にナジル人としての誓願を含む言葉を語られています。【ルカ22:18】)
であるならば、この獅子とその中から蜜が出てくる奥義はどのようなものということができるでしょうか。
「獅子」として出てくる聖書のこれに関わるものとして見ることができるのは、ユダの獅子たる主イエスキリスト、そして聖書に於いて「蜜」は御言葉に喩えられる言葉です。
私達の罪のため十字架の上に裂かれた主イエス、神の言葉(ロゴス)であられる主イエスご自身から神の御言葉が、深遠なる神の御旨が奥義としてその内に隠されているように溢れ出す。
その御旨こそ、キリストと教会が結婚するという聖書の結論たる奥義【黙示録21,22章】。この私達花嫁を買い取るために、主イエスご自身が裂かれ、ご自身の命でその花嫁料を支払われた。それがサムソンの出した問いに見ることのできる神の思いではないでしょうか。
そうした意味で見返すのであれば、この質問が異邦人達に、この宴の場所で問われたということにも頷ける深い意味を知ることができます。
まず異邦人に語られた福音。そしてそれは決して人の知恵、力では解き明かすことのできない、辿り着くことのできない、神から私達への答え、救いという最大の愛。
この最も深く、幸いな事実は、愛により始めて花嫁に明かされる深遠なる事実です。
しかしこの花嫁が心奪われたのは花婿ではなく、自らの命を奪われないことでした。
そして、この異邦人達は自らが物を取られるのを惜しんでこの花嫁を脅迫し、答えを強引に引き出したものでした。
なんと浅ましいことでしょうか。この全ての問いは愛の内に豊かに解き明かされるべきであるのに、異邦人達は殺意で、そして花嫁は愛を売り渡すことで、サムソンからその答えを聞き出そうとするのです。
そして、この花嫁は神の選びの民であるサムソンとの結婚という途方もない恵みすら、他の者との結婚にすり替えてしまうのです。
そして、その結果は花嫁自らが恐れた死そのものでした。【士師記15:6】
私達は主の贖いという恵み、溢るる愛により、やがてこの主の花嫁となるという、人の考えでは決して及ぶことのできない愛の真実を知っています。
それが主に救われた者の最大の望みです。
しかし、もしも私達が目に映る金銀や物に固執するのであれば、この深遠なる愛の本質に辿り着くことはできないでしょう。
またもしも自らの命を惜しむのであれば、それは何を得たとしても、永遠の命を失うものであり【ルカ9:23-26】、また主イエスが私達に与えてくださった愛を売り渡すこととなるのです。

今、私達の心は何に奪われているでしょうか。
主の愛に永遠に心奪われることそれが、主がその命をもって買い取るほどに愛した花嫁である私達に、ふさわしい姿ではないでしょうか。

【雅歌8:6,7】
8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。


※今日の聖書箇所になります。ご参照ください。

【士師記14:18】
14:18 七日目になって、日の没する前に町の人々はサムソンに言った、「蜜より甘いものに何があろう。ししより強いものに何があろう」。サムソンは彼らに言った、「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかった」。

【エペソ5:31,32】
5:31 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
5:32 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。

【ルカ22:18】
22:18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。

【士師記15:6】
15:6 ペリシテびとは言った、「これはだれのしわざか」。人々は言った、「テムナびとの婿サムソンだ。そのしゅうとがサムソンの妻を取り返して、その客であった者に与えたからだ」。そこでペリシテびとは上ってきて彼女とその父の家を火で焼き払った。

【ルカ9:23-26】
9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。

今日のかて 「罪を覆われし者」

【レビ記13:9ー17】
今日主が私達に語られるのは私達の罪の姿です。
レビ記は非常に難解に思われがちですが、それを丁寧に霊的視点で見つめていくのであれば、ただの律法としての形式の問題ではなく、私達の本質的姿が地上に現された型として語られています。
このツァラート(口語訳聖書においてはらい病と訳されていますが、正確にはその訳とは全く異なる病について書かれておりますので、原文と同様ツァラートという言葉で表記させていただきます。)の問題に関しては、ただ突然発祥するものではなく、これは神に対する人の罪がこのような表面に見える形で病として発祥したものとして聖書には語られています【民数記12:9-15】。
そしてその本質がここに、罪の現れとは如何なるものなのかという形で語られているのです。
ここにおいて、皮の下の「生肉」というグロテスクな表現に、目を背けずしっかりと目を向けるのであれば、
まさに人は骨に筋が与えられ、そこに肉を生じさせ、皮で覆ったものにすぎません。【ヨブ記10:11,12】【エゼキエル37:4-6】
私達はどんなに外見をきれいに見せていても、その内側には惨めなことに、罪を求めて止まない人の本質を宿しているのです。【ローマ7:22-24】
ですから、この罪が神により表面に現されているというのが、この病の本質となるのです。
主は罪を重ねる人に、このように御手を置き、さらに罪を重ね続けることがないよう、またこの罪が他の人々に伝え広がることがないよう、聖別の中で取り分け、ツァラートとなった者を宿営の外に出させたのです。
しかし、ここにこの病が全身を覆い白くなった時という不思議な記述を見るのです。
私達がどうしようもなく罪人であるということを知り、この事実を受け入れる時、私達はまるで全身が罪人のように、自らの罪を神の前に恥じ、悔い、苦しむことでしょう。
そして私達は一つの結論に達します。
それはこの罪を贖う贖い主にすがるしか、自らではこの罪をどうにもできないという結論です。
この時、私達はこの罪の自らを携えて、贖い主が待つ十字架の元に身をささげるしかないのです。
その時、主は私達の罪をご自身の十字架の上で流された血潮で真っ白に清めてくださいます。【黙示録7:13,14】
もはや主は私達の罪を見られることなく、主イエスの血を見て、私達を雪のように白いと言われるのです。【イザヤ1:18】
同時に主はこの私達を主ご自身と共に十字架につけられます。そして、私達はこの罪に死に、キリストに生きる者とされるのです。【ローマ6:3-11】
そして私達はキリストを着る者となります。【ガラテヤ3:27】
まさにキリストに覆われ、真っ白く罪を覆われた姿。何と主は憐れみ深い方でしょうか!
罪に覆われていた者が、限りない神の愛、十字架の贖いにより、真っ白いキリストを着る者とされるのです。永遠に。
ですから、私達はこの愛から一歩も出ないよう、この罪を重ね続けるような愚かなことを続けてはなりません。
覆われたこの方を、少しも脱ぎ捨てるようなことを続けてはならないのです。
私達の人としての弱さは、私達を罪に引き戻そうとするかも知れません。
しかし、私達はだからこそ、この十字架の元を一歩も離れはならないのです。
むしろ、この十字架の血潮の内に、釘づけられたキリストご自身の内に、この罪を悔い改める日々の中で、主を本当に喜ばせ、愛することのできる、全き聖いものとされることを、今心から望もうではありませんか。
多くの兄弟姉妹が、信仰の何かしらの活動や、善行、知識を蓄えることや、自らの信仰的に思える何かによって、クリスチャンとしてのクリスチャンらしさを手に入れようと努力します。
しかし、そのことでは、あなた自身の罪の本質は何一つ変わらないばかりか、積み重ねたあらゆることが全く神との関係を変えることなく、心に平安は与えられず、返って積み続けた努力の虚しさと疲れだけを重ねる日々となるのです。
そのため、心が塞ぎ込んで、表面だけでも慰められる、慰めの言葉を求め、その本質は癒えることのない罪から来る報酬としての死に、不安を重ねる日々が続くのです。
もしもあなた自身がそのような中に生きるのであれば、今こそ、命の本質から、新しくされるべき時です。今こそ、十字架の元に自らを携え、罪の根源ごと新たにされるべく、主の贖いの恵み、悔い改めの恵みを受け取りに行くべき時です。
この十字架の道を経ずして、私達は本来信仰者としての道を歩むことはできないのです。
愛する兄弟姉妹、神の民としての集まり、その宿営の中に永遠に生きるために与えられたただ一つの命への道、この十字架の元に今共に集おうではありませんか。

※今日の聖書箇所になります。ご参照ください。
【レビ記13:9ー17】
13:9 もし人にらい病の患部があるならば、その人を祭司のもとに連れて行かなければならない。
13:10 祭司がこれを見て、その皮に白い腫があり、その毛も白く変り、かつその腫に生きた生肉が見えるならば、
13:11 これは古いらい病がその身の皮にあるのであるから、祭司はその人を汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、これを留め置くに及ばない。
13:12 もしらい病が広く皮に出て、そのらい病が、その患者の皮を頭から足まで、ことごとくおおい、祭司の見るところすべてに及んでおれば、
13:13 祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。
13:14 しかし、もし生肉がその人に現れておれば、汚れた者である。
13:15 祭司はその生肉を見て、その人を汚れた者としなければならない。生肉は汚れたものであって、それはらい病である。
13:16 もしまたその生肉が再び白く変るならば、その人は祭司のもとに行かなければならない。
13:17 祭司はその人を見て、もしその患部が白く変っておれば、祭司はその患者を清い者としなければならない。その人は清い者である。

【民数記12:9-15】
12:9 主は彼らにむかい怒りを発して去られた。
12:10 雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、らい病となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女はらい病になっていた。
12:11 そこで、アロンはモーセに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちは愚かなことをして罪を犯しました。どうぞ、その罰をわたしたちに受けさせないでください。
12:12 どうぞ彼女を母の胎から肉が半ば滅びうせて出る死人のようにしないでください」。
12:13 その時モーセは主に呼ばわって言った、「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」。
12:14 主はモーセに言われた、「彼女の父が彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日のあいだ、恥じて身を隠すではないか。彼女を七日のあいだ、宿営の外で閉じこめておかなければならない。その後、連れもどしてもよい」。
12:15 そこでミリアムは七日のあいだ、宿営の外で閉じこめられた。民はミリアムが連れもどされるまでは、道に進まなかった。
【ヨブ記10:11,12】
10:11 あなたは肉と皮とをわたしに着せ、骨と筋とをもってわたしを編み、
10:12 命といつくしみとをわたしに授け、わたしを顧みてわが霊を守られた。

【エゼキエル37:4-6】
37:4 彼はまたわたしに言われた、
、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。

【ローマ7:22-24】
7:22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
7:23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

【黙示録7:13,14】
7:13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。
7:14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

【イザヤ1:18】
1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

【ローマ6:3-11】
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

【ガラテヤ3:27】
3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。

今日のかて 2コリント 4:16-18

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
新約聖書 2コリント 4:16-18

新しい年を迎え、「今年こそは心新たにこれをしよう」とか、「全てを一新して歩んで行こう」だとか、いろいろな思いで一年を始めようとされている方もたくさん居られると思います。
ここで新しくしようと思われるのは心の一新とか、行い(つまり体)における一新を考えるというのが、人の考えるところの新しいというものでしょう。
これは気分によって変わるものであったり、また肉体的な問題、年齢的な問題などで、あるいはすぐにその新しさは色薄れるものです。
今年こそで始まるけれど、年の終わりには早く年忘れしたい、そんな移ろいやすい外面だけの新しさに、振り回されるような歩みを毎年重ね続けるのであれば、確かに私達の歩みはどこか虚しさの残る希薄なものとなるでしょう。
しかし、神を信じる者に与えられてる歩みは、決してそのような空虚なものではありません。
主は死を打ち砕きよみがえられた方。私達の歩む日々の歩みにはこのキリストと共にあるからこそ、死と復活を常に繰り返し迎えるのです。
私達を死の恐怖へ引き吊り込もうとする一切の現実、問題、困難は、つまりは私達全ての人が持つ罪の故に、死の報酬へと進むあらゆる現実は、全てがあの十字架の死と共にかけられる。
やがてそこにはよみがえりの絶大な力に満ちた、新しい命が常に溢れるのです。
そう、つまり主が与える新しさはその命そのものを新たにするという新しさ。私達の根底から全てのものを一新するという新しさです。
古きは死を迎え、よみがえりの命と共に全てが新しくなる。
どうしても罪を犯し続ける罪に満ちた古い命の持つ私達の性質は、その古い命と共に十字架にかけられて死に、よみがえりと共に与えられた新しい命にある、神の性質に預かる者とされた。
自分を中心に生きる肉にある生活から、新しい命である御霊に導かれ、神を中心に生きる生き方をする者となった。
暗闇から光の支配の下へ、死から命へ、サタンの支配の下からキリストの支配の下へ。
地上に生きる者から、天に生きる者へ移された。
一時の限られた時間を生きる人生から、永遠を生きる永遠の命を持つ者へとされた。
私達が新しくされたとは、このような最も深い根底から、完全に一新されたという、私達の理解をも超える程の意味を持つものなのです。
この新しい命をあなたは本当に味わっているでしょうか?
この本当の新しさを知るのは私達の内に生きる御霊であり、またこの新しい生き方を語るのは聖書の真理のみです。
つまりは聖書を読み、祈り、霊に満たされて、主に導かれて、主に従い生きる日々の中にしか、実はこの真の新しさを知る鍵はありません。
決して新しく見えない、近道などない、ごく当たり前に見える、日々の積み重ねの中にしか、本当の新しさは存在しないのです。
残念ながら、目新しい何かを信仰生活に求め、目に見える刺激的な何かを追い回し、この方が近道と言われるような生活を繰り返しても、そこに本当の新しさはない、虚しい信仰生活の繰り返しにしかならないのです。偽りの目新しさは私達を真の新しさには導かず、そこに残されるのは偽りの信仰生活のみであり、古い命に束縛された決して新しさにたどり着けない道のりなのです。
あなたの本当の新しさを知るために、ごく当たり前の生活から見つめて、新たに今日を歩み始めましょう。
永遠の新しさはすでにあなたの内に始まっているのですから。


愛する主よ。私達はあなたに、すでにその命ごと新たにされたのですが、その新しさを存分に味わい知ってはいません。目新しさを求めてはいますが、すでに与えられている命の真の価値を知らないでいるのです。どうか、永遠に生きる者として、天に生きる者として、その新たな命に生きる者として、目を開いてください。その目を、まなざしを、新たにしてください。そして、そこから新たな歩みを今日も与えて下さいますように。

今日のかて ヨハネ 4:10-15

イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
新約聖書 ヨハネの福音書 4:10-15

神がどのような方であるかということを知ることは、とても重要なことです。
多くの兄弟姉妹が神に何かの問題について祈った後に、「主よ。その問題をあなたはどのように解決してくださるのですか?」と訊ねます。
さらに自分でその願いを神がどのように叶えてくださるかの方法論まで、細かくシュミレーションまでしてしまいます。
つまり神はこのような方法で、この願いを叶えてくださるだろうと。
しかし、そのことは無限の神を、小さな小さな人間の知恵の中に、閉じこめてしまうことになるのです。
主はどのような方でしょうか?
主は永遠の命そのものである方です。
そして、私達の全ての渇きを私達が主に訴える前から、主は私達に何が必要か知っておられ、それを完全に満たそう、いや永遠に満たし続けようとされる方です。
その方法は人の手を何一つ必要とすらされないのです。
その綿密な計画は私達の計画よりはるかに高く、私達の理解を超え、想像を超えた、完全なもの。

《コリント人への手紙 2:9》
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

つまり、私達がどのように神がなさるかということに口を挟むのは如何にも愚かしいことです。
もしもそのようにするのであれば、私達は自分の思いを、神の御心に対立させるという恐ろしいこととなり、時にはその結果として自分の思っていたことと結果が違うと、自分の思いで自らを傷つけることさえあるのです。
主は初めであり終りである方なのです。
主に全ての始まりを委ねるのであれば、主がその結果をも負われ完成されるのです。
主は義であり、愛である方だからこそ、一度ご自身が始められたことを完成しないでは居られないのです。
主は完全な方であるからこそ、私達への主の計画も完全であり、主が善である方であるから、その計画は最善であるのです。
主がどのような方であるかを知り、全ての思い煩いを主に委ねましょう。
主ご自身があなたのことを心配してくださっているのです。
この方こそ、天地万物を治められる主なのです。
その方があなたにやさしく伸べている御手に、あなた自身を委ねましょう。
主があなたの揺るぎなき人生を完成してくださるのです。


愛する主よ。小さな私達の心をあなたに明け渡します。私達の心を広くしてください。無限であり全能であるあなたを知ることができるよう、思い煩いや貧しい想像で狭くなった私達の心を広くしてください。恐れるのではなく全幅の信頼をもって、あなたに全てを委ねさせ、あなたの無限の恵みに安らぐ者としてください。私の生きる全ての時で、主を知ることは、私の最上の喜びなのです。あなたを知り、あなたと共に歩む日々をお与えください。
主イエスの御名により。アーメン。

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今日のかて マタイ6:19-21

《マタイ 6:19-21》
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。

私達の信仰者としての歩みはどこを見ているかに拠ります。この地上に何を作り、何を積み上げ、心の支えや誇りとしても、それらは儚く消え去るものです。
どれほど、地上で能力があっても、経験があっても、地位があっても、経済的に豊かであっても、どれほどの素晴らしい物達に囲まれていても、それがどれほど確かに見える、自分の将来を保証してくれるように見えたとしても、それらは御言葉のように「虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出す地上」に積み上げる物は、いとも簡単に儚く消え去る虚しいものに過ぎないのです。
ならば何をするために生きているのかと、逆に目的を失い、虚しく悲観的になる必要はありません。
確かに聖書においてこの世と言われている、この社会における価値観では、地上に結果を出す、積み上げる以外に生きる目的が見えないでしょう。何せ、天を知らないのですから。
天の存在を知ることができるのは、主イエスを信じ救われて新しい命に生まれた者だけです。なぜなら、私達の内に生きる命、聖霊は天から下られた霊であり、だからこそ、私達をこの地上に生きているこの時でさえ天にある者と等しくされるからです。

《1コリント 15:42-50》
死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。
第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。
この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。
すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

地上にある命はやがて朽ち果てますが、この天から降って私達に与えられた、天からの新しい命は永遠に朽ち果てることはありません。
そしてこの天から来た命は天に属する者の性質を持つために、私達に天を見させ、天を味わい知ることを与えるのです。
そして、この天こそ永遠という、終わることのない、限りのない、つまり時間というものを超越した場所であり、そこにあるものは全てが永遠の中に変わることなく存在するのです。
私達はこの天を見ることができるのです。

《2コリント 4:16-18》
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

私達はこの天を見る時、そこにある永遠の栄光を見ます。私達がどのように生きるとしても、地上に宝を積むよりも、天に積まれる宝の素晴らしさに、地上では味わうことのできない喜びを知るのです。
主の御心を行い、主の栄光を求めて生きる時、地上に何が起こることよりも、天においていかに栄光に輝く宝が積まれているのかということの方が、はるかに価値ある生き方であるということを、内から溢れ出てとどめられない程の喜びのうちに、確信するのです。
私達に与えられている命は永遠です。終わることのない永遠の人生を歩む私達にふさわしい、価値ある歩みを求めましょう。
昨日とは違う、あなたの日々の過ごし方が今日から始まるのです。


愛する主よ。まだ私達には、あなたが与えてくださった永遠の命の本当の価値がわかりません。それは知性では理解することのできないほど、絶大な価値を持つからです。この命を持つにふさわしい歩みを私達に教えてください。天的喜びの深さを存分に味わい知る者としてください。私達に天に宝を積む喜びを教えて下さい。あなたがそのことによって喜びを得てくださいますように。
愛する主イエスの御名によって。アーメン。

今日のかて ヨハネ 4:39-42

さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
新約聖書 ヨハネの福音書 4:39-42

一人の女性がイエスキリストに出会いました。
彼女は命に飢え渇きながらも、自らの問題に、そして罪に捕らえられ、人目を忍び生きてきました。
自分にはどうにもできないことを抱えたまま、だからこそ、その命が枯れ果て、心の奥底で命を求めていました。
このサマリアの女に声をかけた主イエスこそ、彼女が求めていた命の泉たる救い主でした。
彼女はほんの数言しかイエスと会話していませんが、彼女の命の問題、罪の問題、神との交わり(礼拝)の回復。言葉ではなく、知性でもなく、その霊の深くにまで至る全てが満たされ、イエスこそ我が救い主キリストと告白するに至ったのです。
その告白がサマリアの人々の心を動かしたのです。彼女にとっては人目を忍ぶ、恥ずべき罪深き日常生活を、そこから解放され命を得たからこそ、恥じる事なく告白した、その罪からの解放の知らせこそ、サマリアの人々への真実の告白、最初の福音となったのです。
そして、その言葉でサマリアの人々は、イエスを信じた。
しかし、ここからが重要な部分です。
どれほど強烈にイエスと出会ったという人がいても、その人の信仰の告白はその人のものです。残念ながら、その人の言葉をいくら聞いても、信仰へのきっかけにはなっても、自分の信仰にはなりません。自分が直接主イエスと交わり、直接主イエスから御言葉を聞かなければ、何の意味もなしません。
それは人からの借り物の信仰であり、借り物では命を受け取ることはできないのです。
これは信仰者としての歩みのどの段階においても言えることです。
どれほど素晴らしい信仰者と交わっても、どれほど素晴らしいメッセンジャーのメッセージを聞いても、どれほど多くの素晴らしい信仰書を読んでも、どれほど信仰深い信仰者に祈ってもらっても、それは自分が主と交わらなければ、何の意味もないものなのです。
なぜなら、主の言葉にこそ命があり、主との交わりにこそ命が流れる、直接的な主との関係のみが私たちを永遠の命に生かすのです。
その意味でサマリアの人々が強いて主にその地に滞在してくださるように、つまり自ら直接主と交わることを願って、主から直接御言葉を聞いたことは非常に重要な意味があったのです。だからこそ、彼等は信仰を自らのものとすることができた、その告白こそが、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」という言葉になっているのです。
これこそが彼等が受け取った、地上の何よりも価値を持つ、永遠の命なのです。
信仰は自らのものとなって始めて、命となって力を持ち、隠すことができないほどに溢れて、命の川々となって流れ、多くの人々を命に満たし生かすものとなるのです。そしてさらに命はこのプロセスを繰り返して拡大し続け、だからこそ、時代を超えて、地域を超えて、世界中にイエスを救い主と信じる者達が生きているのです。
この主イエスがあなたに与えている永遠の命には、本当に力を持って溢れた時、世界中を命に覆うほどの絶大な力があるのです。
あなたはそれを本当に受け取っているでしょうか?
あなたは信仰を自分のものとしていますか?誰かからの借り物ではないでしょうか?
あなたは直接主と交わっていますか?直接主から御言葉を聞いていますか?
あなたは永遠の命を自らのものとしていますか?
今、主に祈り、主と直接交わる時を共に持ちましょう。


愛する主よ。今あなたの声を聞かせてください。あなたがどれほど、私達を愛し、またご自身の愛溢るる思いを明かされようと願っておられるのかを。そしてあなたを信じる者の内に与えられているあなたの命が、いかに絶大な力を持ち、また私達の内から溢れ出て、死に満ちるこの世を命に満たそうと願っておられるのかを。これほど絶大な永遠の宝が私の内に閉じ込められている、畏れ多さを覚えます。この永遠の命はあなたのものです。どうか御心のままに溢れ出てくださいますように。


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今日のかて 創世記 26:12-25

イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
彼はそこからベエル・シェバに上った。
主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。
旧約聖書 創世記 26:22-25
(全文長いため略しました。創世記 26:12-25全体は聖書からご参照ください。)

イサクは穴を掘り続けました。
彼は、主が彼を祝福されるのを、周りの者に嫉まれて、自らの住む地を追われました。
父から受け継いだ土地、そしてそこにあった井戸を塞がれ、出て行ってくれと言われたのです。
迫害されても、人々から奪われても、彼は淡々と井戸を掘り続けました。
何度人々から退けられても決して逆らわず、争わずにただ淡々と、幾度も埋められてしまっていた父の井戸を再び掘っては奪われ、埋められ、その地を追われ、それでも井戸を掘り続け、やがては新たに井戸を掘り、ただひたすらにそれを繰り返して掘り続けたのです。自らの住む場所を得るために。(12-21節)
イスラエルの地においては水のないことは死活問題ですから、井戸を奪われることは私達が思うよりも深刻な問題なのに、彼は争い奪い取り返すことより、井戸を掘り続けました。
まるで何か見えない使命があるかのように。
しかし、その井戸を掘り続けたことは、意図を越えて気がつけば、新しい地を広げ得たということとなったのです。
父から受け継いだ地を、さらに広げ得たということが、いかに主の目には大きなことであったのでしょうか。
だからこそ、イサクは父から受け継いだ信仰と、その祝福を今やイサク自身のものとして、受け取ったのです。
主はこの時直接イサクに現れ、語られたのです。そしてイサクはこの時初めて自らの手で祭壇を建て主に礼拝をささげました。(22-25節)
彼はこのようにして、信仰を勝ち得、また主からの約束を勝ち得たのです。
一見するとこれは消極的な戦いに見えるかも知れません。確かに聖書にあるイスラエルの歩みの中には、新しい地を信仰により戦争をし、戦い取る姿が随所に描かれいます。そこからするなら、これは戦いを避けたゆえに、結果広げ得た地に見えるでしょうか。
いえいえ、このイサクの戦いは目に見える戦いではなく、まさに目に見えない霊的な(信仰の)戦いだったのです。
なぜなら、井戸こそ、命の泉。イエスキリストはご自身をそのような者として私達に語られているのですから。

《ヨハネの福音書 4:14》
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

その命の泉を掘り続けたイサクの姿は、まだ見ぬイエスキリストを信仰の目により、はるか未来に現れる救い主を仰ぎ見て、探し続ける姿ということができます。そして彼はそのことにより新しい地を得たのであり、神に直接お会いすることができたのです。その時神から語られた言葉は井戸を掘り続ける前の約束の言葉(創世記26:2-5)と変わりなく聞こえますが、彼には自らへの確かな約束として受け取れたでしょう。なぜならその信仰を自分のものとして確かに受け取ったからこそ、自ら祭壇を建て主に礼拝をささげる礼拝者となったのですから。
やがてさらに、ここで得た約束が元となり、後にイスラエルの民は新しい地を実際に戦い取ることとなるのです。つまり、イサクはイスラエル全体の勝利をここで一人静かに勝ち取ったとさえ言えるのです。
神の祝福と約束の中を歩む信仰者の歩みは、全く何もない平坦な道とは限りません。誰でも信仰における戦いはあるでしょう。
そしてその戦い方は一通りではありません。
主は何をあなたに勝ち得てほしいと願い、何をすることを望んでおられるのでしょうか。
それはあなたが問題や壁に行き当たる時、あなた自身が神に聞くしかありません。
しかし、一つだけ言えることは全てのことに神のご計画があり、あなたにとって必ず意味がある。主のみおもいが全てにあるということです。

《詩篇 139:16,17》
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

そこを歩むとき私達は見えない道程を、主に確かに導かれて、見えているかのように歩むことができるのです。主の導きの御手はどこへ向かって伸べられているでしょうか。共に祈りましょう。


愛する主よ。私達の日々の歩みは確かに目には見えず、不確かに見えるかも知れません。ましてや目の前に壁や問題が立ちはだかるならそれは尚更です。しかし、私達が見るのはその目の前にある現実ではなく、主よ、あなたの御心です。あなたの溢れる私に向けられている御心をどうかお語りください。何を望まれ、何を与え、どこに導こうとされているのでしょうか。見えないからこそ不安に怯えるのではなく。どうかあなたを信じ、真っ直ぐにあなただけを見て、ただ一筋に歩むための信仰を私達にお与えください。ただあなが私を愛してくださるがゆえに、ただあなたを愛するがゆえに。

今日のかて マタイ 26:29

ただ、言っておきます。 わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
新約聖書 マタイ 26:29

これは最後の晩餐の席で、主イエスが語られた一言です。ご自身の血で立てられる新しい契約の杯として、ぶどうの杯を弟子達に分かたれた時のものです。そして、ここには主の深い思いが込められています。
ぶどうの実で造った物をもう飲むことはないと言われたのは、旧約聖書にあるナジル人の誓願の規定に重なるものです。

《民数記 6:2-4》
「イスラエル人に告げて言え。男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、
ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。
彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。

ナジル人の誓願とは、特別に自分を神のものとしてささげ、聖別する誓願です。ここで主はご自身をそのように父なる神にささげました。この後文字通り十字架の上に、ご自身を、唯一父なる神を満足させる、完全なるささげ物としてささげられました。
ご自身を聖別し、同時にこの血で立てられる杯により私達を聖別するために。

《ヨハネ 17:17-19》
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

主は私達をどれほどの思いでこの地上に残し(遣わし)、天に帰られたことでしょう。そして、ご自身と共に私達を聖なるものとすることがどれほどの悲願であったでしょう。

《レビ記 19:2》
イスラエル人の全会衆 に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

主が「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日まで」と言われているのは、黙示録の最後に書かれている婚宴の時であり、この婚宴は花婿イエスキリストと花嫁である私達教会との結婚の時を指します。
その時まで、私達をご自身にふさわしいように、ご自身が聖であるように、聖としようとされたのです。
その日まで主はナジル人の誓願を続けられるというのです。
私達花嫁を迎えるため、ふさわしい花嫁とするため、主はご自身のすべてをささげ尽くして私達に備えを与え、ご自身と同じ姿にまで変えてくださろうと私達を引き上げてくださろうというのです。

《2コリント 3:16,17,18》
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる 主の働きによるのです。

神の子イエスキリストと同じかたちにです。何と恐れ多いことでしょう。罪人でしかなかった私達を栄光から栄光へと鏡のように主の栄光を反映させながら、そのような姿に変えるというのです。主は私達をどれほど愛しておられるというのでしょう。
そのための誓願を主は、花嫁として私達を迎えるその日まで続けられるというのです。どれほどの思いがそこに込められているのでしょうか。
私達が聖餐を重ね、この杯を重ねる度に、主の聖なるものとして、栄光の似姿に変えられて行くことを心から望んで止みません。
主のこの深い思いを、あなたはどれほど受け止めていますか?


主よ。あなたには私がどのようなものとして映っているのでしょうか?この塵に過ぎない者をどれほど愛しているというのでしょうか?なぜそれほど私を愛してくださるのでしょうか?それをあなたに直接うかがえるその日まで、天でお会いできるその日まで、あなたの愛のままに、私をあなたにふさわしく変えてくださいますように。ただあなたの御前に私を置いてください。あなたの栄光を日々映すために。ただあなたを愛するために。
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新橋駅前広場にて、人生の真実を叫び続ける伝道者、ストリートメッセンジャーのTaka♪です。
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