だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
新約聖書 2コリント 4:16-18

新しい年を迎え、「今年こそは心新たにこれをしよう」とか、「全てを一新して歩んで行こう」だとか、いろいろな思いで一年を始めようとされている方もたくさん居られると思います。
ここで新しくしようと思われるのは心の一新とか、行い(つまり体)における一新を考えるというのが、人の考えるところの新しいというものでしょう。
これは気分によって変わるものであったり、また肉体的な問題、年齢的な問題などで、あるいはすぐにその新しさは色薄れるものです。
今年こそで始まるけれど、年の終わりには早く年忘れしたい、そんな移ろいやすい外面だけの新しさに、振り回されるような歩みを毎年重ね続けるのであれば、確かに私達の歩みはどこか虚しさの残る希薄なものとなるでしょう。
しかし、神を信じる者に与えられてる歩みは、決してそのような空虚なものではありません。
主は死を打ち砕きよみがえられた方。私達の歩む日々の歩みにはこのキリストと共にあるからこそ、死と復活を常に繰り返し迎えるのです。
私達を死の恐怖へ引き吊り込もうとする一切の現実、問題、困難は、つまりは私達全ての人が持つ罪の故に、死の報酬へと進むあらゆる現実は、全てがあの十字架の死と共にかけられる。
やがてそこにはよみがえりの絶大な力に満ちた、新しい命が常に溢れるのです。
そう、つまり主が与える新しさはその命そのものを新たにするという新しさ。私達の根底から全てのものを一新するという新しさです。
古きは死を迎え、よみがえりの命と共に全てが新しくなる。
どうしても罪を犯し続ける罪に満ちた古い命の持つ私達の性質は、その古い命と共に十字架にかけられて死に、よみがえりと共に与えられた新しい命にある、神の性質に預かる者とされた。
自分を中心に生きる肉にある生活から、新しい命である御霊に導かれ、神を中心に生きる生き方をする者となった。
暗闇から光の支配の下へ、死から命へ、サタンの支配の下からキリストの支配の下へ。
地上に生きる者から、天に生きる者へ移された。
一時の限られた時間を生きる人生から、永遠を生きる永遠の命を持つ者へとされた。
私達が新しくされたとは、このような最も深い根底から、完全に一新されたという、私達の理解をも超える程の意味を持つものなのです。
この新しい命をあなたは本当に味わっているでしょうか?
この本当の新しさを知るのは私達の内に生きる御霊であり、またこの新しい生き方を語るのは聖書の真理のみです。
つまりは聖書を読み、祈り、霊に満たされて、主に導かれて、主に従い生きる日々の中にしか、実はこの真の新しさを知る鍵はありません。
決して新しく見えない、近道などない、ごく当たり前に見える、日々の積み重ねの中にしか、本当の新しさは存在しないのです。
残念ながら、目新しい何かを信仰生活に求め、目に見える刺激的な何かを追い回し、この方が近道と言われるような生活を繰り返しても、そこに本当の新しさはない、虚しい信仰生活の繰り返しにしかならないのです。偽りの目新しさは私達を真の新しさには導かず、そこに残されるのは偽りの信仰生活のみであり、古い命に束縛された決して新しさにたどり着けない道のりなのです。
あなたの本当の新しさを知るために、ごく当たり前の生活から見つめて、新たに今日を歩み始めましょう。
永遠の新しさはすでにあなたの内に始まっているのですから。


愛する主よ。私達はあなたに、すでにその命ごと新たにされたのですが、その新しさを存分に味わい知ってはいません。目新しさを求めてはいますが、すでに与えられている命の真の価値を知らないでいるのです。どうか、永遠に生きる者として、天に生きる者として、その新たな命に生きる者として、目を開いてください。その目を、まなざしを、新たにしてください。そして、そこから新たな歩みを今日も与えて下さいますように。