イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
新約聖書 ヨハネの福音書 4:10-15

神がどのような方であるかということを知ることは、とても重要なことです。
多くの兄弟姉妹が神に何かの問題について祈った後に、「主よ。その問題をあなたはどのように解決してくださるのですか?」と訊ねます。
さらに自分でその願いを神がどのように叶えてくださるかの方法論まで、細かくシュミレーションまでしてしまいます。
つまり神はこのような方法で、この願いを叶えてくださるだろうと。
しかし、そのことは無限の神を、小さな小さな人間の知恵の中に、閉じこめてしまうことになるのです。
主はどのような方でしょうか?
主は永遠の命そのものである方です。
そして、私達の全ての渇きを私達が主に訴える前から、主は私達に何が必要か知っておられ、それを完全に満たそう、いや永遠に満たし続けようとされる方です。
その方法は人の手を何一つ必要とすらされないのです。
その綿密な計画は私達の計画よりはるかに高く、私達の理解を超え、想像を超えた、完全なもの。

《コリント人への手紙 2:9》
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

つまり、私達がどのように神がなさるかということに口を挟むのは如何にも愚かしいことです。
もしもそのようにするのであれば、私達は自分の思いを、神の御心に対立させるという恐ろしいこととなり、時にはその結果として自分の思っていたことと結果が違うと、自分の思いで自らを傷つけることさえあるのです。
主は初めであり終りである方なのです。
主に全ての始まりを委ねるのであれば、主がその結果をも負われ完成されるのです。
主は義であり、愛である方だからこそ、一度ご自身が始められたことを完成しないでは居られないのです。
主は完全な方であるからこそ、私達への主の計画も完全であり、主が善である方であるから、その計画は最善であるのです。
主がどのような方であるかを知り、全ての思い煩いを主に委ねましょう。
主ご自身があなたのことを心配してくださっているのです。
この方こそ、天地万物を治められる主なのです。
その方があなたにやさしく伸べている御手に、あなた自身を委ねましょう。
主があなたの揺るぎなき人生を完成してくださるのです。


愛する主よ。小さな私達の心をあなたに明け渡します。私達の心を広くしてください。無限であり全能であるあなたを知ることができるよう、思い煩いや貧しい想像で狭くなった私達の心を広くしてください。恐れるのではなく全幅の信頼をもって、あなたに全てを委ねさせ、あなたの無限の恵みに安らぐ者としてください。私の生きる全ての時で、主を知ることは、私の最上の喜びなのです。あなたを知り、あなたと共に歩む日々をお与えください。
主イエスの御名により。アーメン。

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