イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
新約聖書 ルカの福音書 5:3-6

私達の力が尽きた時、人の思いが尽き果てた時、神の御業が現れます。
それは人の力に一切よらず神のみによってなされた御業であり、神の絶大な力、深いみこころを、私達はそこで初めて知ることができるのです。
主のあわれみは尽きることはありません。
そして私達の唇は、神を賛美することを止められないでしょう。
それこそが神の栄光であり、この栄光を受けるにふさわしい方は神のみなのです。
神は私達が力を尽くさなければ何も出来ないような方ではありません。むしろ、誰の力にもよらず、ただご自身が全てを満たし、全てを動かし、全てを完成されるのです。
この絶大なる神の存在の前に全ての被造物はひれ伏すのです。
だからこそ、それを現すために私達の力が思いが残るうちにはご自身の全容を現されることがないのです。
これは絶望ではありません。神にある真の希望なのです。
しかしここで、その御業を見る前に、主は一つのことを求めています。
まず主の御言葉に伏し、従うこと。
確かにこの状況においてはぺテロはプロの漁師であり、そのような人が一晩中漁をして何も取れなかったのであるから、全く漁の素人であるイエス様の言葉は現実に反対している言葉に聞こえるでしょう。ここでもしぺテロが自分の主張だけを押し通し、神の御言葉を退けていたら彼は一生救い主であるイエス様に出会うことはなかったかも知れません。
でも、彼は神の言葉に従った。
「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
あらゆる状況において、自らが現実の中で無力さを感じるほどに万策が尽き、失望に膝を抱え込もうとする時、私達は主の御言葉を聞くべきです。そして御言葉にひれ伏し、従うところから、歩みを始めるべきです。
主はあなたのすぐそばに立たれ、あわれみを湛えて、恵みを注ごうと待っておられるからです。
やさしく語りかける主の導きに全てをゆだねて生きることができる人は幸いです。
言葉に尽くすことのできない、大いなる主の栄光をそこに見ることができるのですから。


主よ。私はあなたがいるから、どのような時にも心強いのです。たとえ全てが尽きたように見える時でも、この時こそあなたの栄光が真に現される時だと告白できるのです。今こそ、あなたの本当のみこころの深さを知ることができると、あなたのみに希望をよせることができるのです。主よ。小さな私に絶大なるあなたを現してください。私が真にあなたを知り、またここに現された栄光に触れた全ての人々もあなたを知って、あなたへの賛美が溢れるために。