すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
新約聖書 ヨハネの福音書 1:9-13

主イエスキリストの誕生を祝うクリスマス。それを待ち望む40日間、今はそのアドベント(待降節)の時期にあります。私たちが主を待ち望むのはすでにこの地に生まれて下さったキリストの降誕に思いを巡らすと同時に、やがて私たちキリストの花嫁を迎えに花婿キリストがこの地に来られる日を待ち望む思いとも重なるものではないでしょうか。
しかし、最初にイエスキリストが地上に降られたとき、彼は彼の民(私たち)に拒絶され、その人生すべてを通して人々に拒絶され続け、十字架にまでかけられ地から除かれたのです。確かにそのことによって、贖いの御業は完成し、私達はそのことによって救いの恵みに預かっています。けれども、同時に主がどれほどに私たちを求め私たちに渇いておられたのかを今強く思うのです。
愛され迎えられるべき方が、そのご自分の民に拒絶をされる。愛されるべき者が愛されない悲しみと渇き。
十字架の上で「わたしは渇く。(ルカ 19:28)」と言われた主の私たちを求める声が胸に刺さるのです。
私達はどれほどに彼を愛しているでしょうか?
彼の渇きを潤すほどに彼を愛しているでしょうか?
彼が命を私たちに与え私たちを愛したほどに、彼を求め愛しているのでしょうか?
愛されるべき花婿に私たち花嫁は形だけの冷え切った愛をささげていないでしょうか?

主の降誕を思い待ち望むこのとき、ひとたびやがて来られる花婿なる主の、今も私たちに向けられておられる深い渇きを覚えて、主を心から待ち望みたいと思います。

主よ。私達はあなたの花嫁。あなたのものです。あなたが一心に渇き求めておられる私たち自身を、あなたにおささげしたく願います。 どうか私たちをあなたの花嫁としてふさわしいように整
えてください。ただあなただけを愛する者として、無垢な愛を育んで下さいますように。やがて花婿なるあなたが私たちを迎えてくださる、そのことを希望にただあなたをこい慕い、待ち望みます。アーメン主イエスよ。来たりませ。