キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
新約聖書 ピリピ人への手紙 2:6-8
私たちからではなく、ご自身から私たちに近づかれる神など、この世のどこにいるでしょうか?
私たちに近づくため、神であるあり方を捨て、栄光を捨て、豊かさを捨て、すべてを捨てて、自分を無にし、私たちに仕えるために、人間となる神などどこにいるでしょうか?
人となられた神、ここに人間の想像では理解できない奥義があります。
そして、ここに救いの中心真理があるのです。
なぜ、神が人間となる必要があったのか?
イエスキリストは、神と人間の間に立たれた方だからです。
私たちの誰しもが生まれもって持つ罪は、完全なる聖であり、義(正義)であられる神から私たちを引き離しました。しかし私たちはこの罪に関して自分ではどうすることもできません。罪に捕えられ、その結果として免れることのできない死の恐怖の奴隷となり生きるしか、私たちにはできませんでした。けれども、この人となられた神は、私たちを捕える罪を死をその身に負い、その身を十字架の上で裂くことによって、罪を死を葬り、私たちが神の元に立ち帰るための救いの道を開かれました。
さらに、私たち罪あるすべての人が負うべき、やがて終わりの日に来たる神の御怒り、裁きをも、その十字架上で、ご自身の身の負われたのです。
《ヘブル人への手紙 10:5-7》
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
私たちのいのちを贖う(買い取る)ための生け贄には、どうしても人間でなければならず、その上、罪の全くない者でなければならず、だからこそ、キリストは神の御子なる神でありながら、人となられたのです。
私たちはこの十字架の姿に本当の神の愛を知ります。目に見えない神がいかなる方なのか、人として来られたキリストの姿に私たちは神の本質を見るのです。
また、この神は遠くは離れて立つ神ではなく、私たちと同じように人となられ、私たちの人生で味わうおよそすべてを、最も貧しき卑しき者となられ味わわれた方だからこそ、私たちが苦しむとき、痛むとき、傷つき悲しむとき、貧しきとき、孤独のとき、弱きとき、恐れるとき・・・、そうあらゆる時に私たちの思いを知ることができ、彼こそ私のためにいのちをかけて神にとりなしてくださる方となられたのです。
だから、この方、イエスキリストという神は、人となられなければならなかったのです。だから、人として十字架にかからねばならなかったのです。
あなたのために。私のために。
主よ。あなたの計り知れない愛のゆえに、私はあなたの前に立ちおおせることなどできません。ただ、ひれ伏し、あなたの限りない愛に涙とともに感謝と讃美を捧げるほかありません。なぜあなたは私を愛されがゆえに人となられたのでしょう。あまりにも不思議、あまりにも想像を超えています。しかし現にあなたはこうして私のうちに、生きていておられます。そしてあなたは私のいのちとなり、すべてとなられました。あなたのゆえに生きていることを私は今心から喜びます。あなたとともにとこしえに歩めることを心から感謝します。今もこうしてあなたを呼ぶことをゆるされる、あなたの御名を心から高らかに讃美します。あなたのこの大いなる御業があなたの愛する全地の人々の上に現され、そのすべての人々が救いを受けて、その喜びのうちにすべての造られた者たちがあなたを讃美しますように。あなたのみこころがなりますように。
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ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
新約聖書 ピリピ人への手紙 2:6-8
私たちからではなく、ご自身から私たちに近づかれる神など、この世のどこにいるでしょうか?
私たちに近づくため、神であるあり方を捨て、栄光を捨て、豊かさを捨て、すべてを捨てて、自分を無にし、私たちに仕えるために、人間となる神などどこにいるでしょうか?
人となられた神、ここに人間の想像では理解できない奥義があります。
そして、ここに救いの中心真理があるのです。
なぜ、神が人間となる必要があったのか?
イエスキリストは、神と人間の間に立たれた方だからです。
私たちの誰しもが生まれもって持つ罪は、完全なる聖であり、義(正義)であられる神から私たちを引き離しました。しかし私たちはこの罪に関して自分ではどうすることもできません。罪に捕えられ、その結果として免れることのできない死の恐怖の奴隷となり生きるしか、私たちにはできませんでした。けれども、この人となられた神は、私たちを捕える罪を死をその身に負い、その身を十字架の上で裂くことによって、罪を死を葬り、私たちが神の元に立ち帰るための救いの道を開かれました。
さらに、私たち罪あるすべての人が負うべき、やがて終わりの日に来たる神の御怒り、裁きをも、その十字架上で、ご自身の身の負われたのです。
《ヘブル人への手紙 10:5-7》
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
私たちのいのちを贖う(買い取る)ための生け贄には、どうしても人間でなければならず、その上、罪の全くない者でなければならず、だからこそ、キリストは神の御子なる神でありながら、人となられたのです。
私たちはこの十字架の姿に本当の神の愛を知ります。目に見えない神がいかなる方なのか、人として来られたキリストの姿に私たちは神の本質を見るのです。
また、この神は遠くは離れて立つ神ではなく、私たちと同じように人となられ、私たちの人生で味わうおよそすべてを、最も貧しき卑しき者となられ味わわれた方だからこそ、私たちが苦しむとき、痛むとき、傷つき悲しむとき、貧しきとき、孤独のとき、弱きとき、恐れるとき・・・、そうあらゆる時に私たちの思いを知ることができ、彼こそ私のためにいのちをかけて神にとりなしてくださる方となられたのです。
だから、この方、イエスキリストという神は、人となられなければならなかったのです。だから、人として十字架にかからねばならなかったのです。
あなたのために。私のために。
主よ。あなたの計り知れない愛のゆえに、私はあなたの前に立ちおおせることなどできません。ただ、ひれ伏し、あなたの限りない愛に涙とともに感謝と讃美を捧げるほかありません。なぜあなたは私を愛されがゆえに人となられたのでしょう。あまりにも不思議、あまりにも想像を超えています。しかし現にあなたはこうして私のうちに、生きていておられます。そしてあなたは私のいのちとなり、すべてとなられました。あなたのゆえに生きていることを私は今心から喜びます。あなたとともにとこしえに歩めることを心から感謝します。今もこうしてあなたを呼ぶことをゆるされる、あなたの御名を心から高らかに讃美します。あなたのこの大いなる御業があなたの愛する全地の人々の上に現され、そのすべての人々が救いを受けて、その喜びのうちにすべての造られた者たちがあなたを讃美しますように。あなたのみこころがなりますように。
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