《新約聖書 マタイの福音書 5:9》
平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

キリストを信じ、神の子とされた私たちのこの地での働きは、平和をつくる者となることです。
神の子の本来の性質は愛にあります。それは神のご性質が愛であり、私たちはその神の中に生き、またその神ご自身が私たちのうちに生きているからです。誰も殺伐とした天国を想像する人はいないでしょう。神の子とされ天に国籍を持つ私たちは皆、このように愛の性質を持つのです。
しかし、人の性質には本当の愛はありません。どこかに自己愛的また自己満足的な側面があり、残念ながらどこかが偽善的となるわけです。いのちを捨てることをいとわないほどの愛は、十字架にいのちをささげるほどに愛してくださったキリストにある神の愛のほかにないからです。そして、この十字架の前に出るなら、私たちが愛と思っているものの本質がどのようなものであるかがわかるでしょう。自らの命を惜しむことなく、見返りを求めることなく、ただ与えるだけの愛。そう、私たちにはそのような愛がないことが、すぐにわかるでしょう。

《新約聖書 ローマ人への手紙 5:7,8》
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

以前にもお話しましたが、私たちの肉のうちにはよいものはなく、ただ罪の性質だけがあり、もちろんそこに愛はありません。そうした罪が地上に溢れ、その結果としての死の力があらゆるものを覆っている、これが私たちの生きている世界です。ですから、片方では愛を叫びながらも、それと同時に憎しみ争い合う、一見すると矛盾した構図が容易に生まれてしまうのです。それは繰り返される戦争と平和の歴史を見るのであれば一目瞭然でしょう。人間の愛のいかに儚(はかな)いものか、脆(もろ)いものか、力のないものか。歯がみをして悔しがっても、傷つけ合う人の罪深い性質は変わらないのです。
では誰が平和をつくれるでしょうか?誰が本当の愛を知るでしょうか?
しかし、私たちの内に住まわれるキリストは、私たちの奥深くから私たちに愛と平和への思いを湧き起こさせ、死をもいとわない愛を持って互いに愛し合い、平和をつくる者となさしめるのです。
このようにして私たちが内に住まうキリストの愛によってひとつになる時、私たちは神の愛の内にとどまり、神の内に生きる者となるのです。キリストを信じる者はみな、その国籍を持つ天の性質を、自らを通して地上に現し、本当の平和を来たらせる者となりうるのです。そこに神の国があるのです。
国の政治が平和から大儀の戦争が可能となりつつ変わり、またそこに住む多くの人々の心から平安が失われ、欲望が一人歩きしながら争いを巻き起こすような、この時代だからこそ、私たち一人一人がつくり出す、心安らぐ真の平和が必要とされているのではないでしょうか?

主よ。あなたがいのちを捧げて私たちに与えてくださったこの平和を感謝します。心の奥底から溢れるこの平安はそしてこの愛はあまりに素晴らしく、世の与えるいかなるものをも与えられない、まるで天国に生きるようです。あなたの愛を知り、あなたの私たちに与えられたあまりにも多くのものを知り、あなた自身を知れば知るほど、その輝きはあまりあるものです。しかし、これは私だけのものではなく、あなたがすべてを与えてくださったことによって与えられたものであるからこそ、分かち合うもの、与えるべきものであるということを深く思うのです。あなたを信じる多くの小さな者たちが平和をつくる者となったように、私もこの身をあなたに捧げたく願います。神の国がこの小さき小さき者を通して、この地に現われ広げられて行きますように。


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