わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。
だれかわたしに等しい者があるか。その者はそれを示し、またそれを告げ、わが前に言いつらねよ。
旧約聖書 イザヤ書 44:6-7(口語訳)

聖書を貫く最も重要なこと、それは神は唯一であるということです。私たちの知る神のほかに神はいないということです。これは私たちの想像をはるかに超えたこと、人の想像や知恵では決してたどり着くことのできない真実です。
人がどれほど神という存在を想像し、どれほどたくさんの神を作り出そうとも、神と言えるべき存在は他にはありえません。
では、いったい神とはどのような存在だというのでしょうか?
それは彼だけが創造主であり、あとのすべてのものあらゆるものは彼によって造り出されたもの、被造物であります。なぜなら彼だけが全く何もない無から有を造り出せるものであり、他のすべてのものにはその能力はありません。人間の知恵がどれほど進もうと、すべて作り出すものはすでに存在するものを使って作り出すものであり、有から有しか作り出せません。それは私たちが被造物であるからであり、神は創造主だからこそ全くの無から有を造り出せるのです。
この絶対的なことだけは覆すことはできません。でなければ世界が崩壊してしまうからです。
すべてのものは神の存在の元に統べ治められなければ存在すらできません。すべてはただ唯一の存在なる神から造り出され、ただ唯一によって統べ治められなければ、崩壊のないただ一つの秩序によって紡ぎ合わされるようにすべてのものが存在し合うことができなくなるからです。
創造主と被造物の絶対的関係がここに存在します。彼が有るからこそ私たちが有るのです。だから神が始まりであり、終わりでなければならないのです。
そしてその関係の中で創造主が常に変わることなく一方的に被造物に注ぎ続けるもの、それが愛なのです。
生み出した親が生み出された子に一方的に抱き続ける愛の中にはっきりと現わされているように、いやもっと大きく広く長く深く、もっと完全な愛をもって神は私たちを愛しておられるのです。この愛によって私たちは生を受け、この愛によって私たちは支えられ続け、この愛によって私たちは今も存在しているのです。
人間の知恵ではこのような神は想像できず、このように神が唯一な存在であることにはたどり着けないのです。
ではなぜ私たちはこの神を目で見ず手で触れずとも信じられるのでしょうか?
それは神自身が私たちに近づき、ご自分の存在をまた私たちに抱いている愛を私たちにはっきりと現わされたからです。
それがイエスキリストの十字架です。
神の元に立ち返ることこそ、私たちの存在を滅びからいのちに至らせる道です。しかし、人の生まれながらに罪を持ち、つまりただの一つの被造物にすぎない私たちが、創造主なる神の存在に支えられなければ存在すらかなわないのに、自らの存在を自らの手だけによって、あたかも神のように一人で存在しようとし、神から離れた原罪(罪の源)から、数々の罪が生み出されそれを犯し続ける、このことは絶対的に聖なる存在である神への道のりを閉ざすものにほかなりません。
しかし神はご自分の子であり天において神と共におられたキリストをこの地の私たちの元に、つまり私たちの最も汚い罪の元に下して、私たちの罪のために、罪を知らない方を罪として十字架に処罰されることによっていのちの道を開いてくださったのです。
ここに神の存在と愛が紛れもなく現わされているのです。これが神と私たちとの関係です。
この愛を前にこの真実の前に、なおも神から離れておられましょうか。まだ自分の力を頼りに神を頼りとせず生き続け、神を退けるでしょうか。まだ人によって作り出された神とは言えないものを神と言うでしょうか。まだ人によって作り出されたあらゆるものを頼りに生きますか。
神だけがあなたをいのちで満たすのです。どうしてこの神の名を呼び求めないでおられましょうか。
主に立ち返れ。
この名を呼ぶ者を神はその絶大なる愛をもって近づき、ご自分をその愛をなおも現わされるのです。
私たちの小さな愛を最高に込めて、主の名を呼び求めましょう。

主よ!主よ!主よ!あなたこそ神。あなたのほかに神はいません。あなたは私たちのすべてであり、またあなたこそすべての被造物に崇められ讃えらるべき方です。すべての言葉はあなたを讃えるに足りません。ただ私のすべての愛を私のすべてをお捧げします。主にだけ栄光が永遠に変わりなくありますように。


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