キリストが十字架で流された血潮は私たちの罪を赦し、私たちを義とされました。私たちのすべての罪は赦されたのです。言い換えるならば私たちの生涯に渡る一つ一つの罪はこの赦しによってすべて解決したのです。
しかしなぜでしょうか。クリスチャンの多くの兄弟姉妹が今もなお罪を犯す自分に苦しんでいます。心の思いは、神に救われ、もう罪を犯したくない、神に近づきたい、神に従いたいと願っても、なぜか神から心が離れてしまう、神に逆らってしまう、神が喜ばないことをわかっていながらしてしまう、罪を犯してしまう。
いったいなぜでしょうか?
聖書は人が肉・心・霊からできており、そこに大きな矛盾が生じていると語っています。

《ローマ人への手紙 7:17-23》
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

つまり、救われた私たちの心は神に従うことを願っているけれど、それに反して私たちの肉の部分には罪を量産し罪を犯し続ける製造工場としての性質しかなく、ここに矛盾が生じているのです。
しかし聖書は感謝すべきかな、神はこの肉を大胆な方法で破壊し新たなものへと作り変えたと続けて語るのです。

《ローマ人への手紙 8:1-11,13》
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
肉にある者は神を喜ばせることができません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
…中略…
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

何と言うことでしょうか。神はこの肉ごとつまり罪の製造工場ごと、キリストの肉にあって罰し、肉を十字架で死に葬ってしまい、さらに彼の霊が神の思いを全うするものとして、私たちをよみがえらせ生かすのだと言うのです。
これは大切な真理です。罪はこの真理により力を削がれ、もう私たちを捕らえることはできなくなったのです。
さあ、十字架を見上げこの真理を我がものとすべく、ともに祈りましょう。

主よ。今私の心、思いごとあなたにお捧げします。肉の思いはすでに死にあなたの思いが私の思いのすべてです。私はあなたのものです。そう、あなたに十字架でいのちを買い取られたあの時から…。


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