私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
旧約聖書 詩篇 115:1
神は人を通して栄光を現わされるときが多々あります。それは私たちをともに栄光のうちに入れ、ともにその栄光を喜ぶためであり、私たちのような不完全で弱い人という存在だからこそ、その栄光こそ神のものであることがわかるためです。この神の栄光のうちに私たちをひとつとしてくださることこそ、私たちを底まで愛してくださる神の深い愛の現れと言うことができるでしょう。
しかしそのとき、人は目の前に現れた栄光を自分のものとしてしまう、これは自分自身ですらその栄光を握り締めていることに気づかないのですが、そのような性質を持っているのです。それは最初の人アダムとイブが悪魔に騙され、罪を犯し、神に近づくことができない、近づくことを赦されないのろわれた存在となったときから持っているものです。人は神のようになれると騙され、自らが神となり、また神から独立した存在になろうとしたところから起因する最初の罪、神から離れ背を向けて一人で生きようとする罪がここから始ったのです。そのような罪が自らをいかに神から引き離し、神の存在すら忘れ去ってのろわれた中に生きてきたかということは、各々みなさんの過去を振り返るのであればすぐにわかることでしょう。神に出会うまで私たちはそのように生きてきたのですから。
ではこの神が現わされたこの栄光をどのようにして神のものとして私たちは神のもとに帰すことができるのでしょうか?
まさしくそれこそが今日語られる御言葉、人が捧げうるもっとも素直な祈りそのものなのです。
すべての栄光を自らに握り締めるとき、そのすべてのものは私たちのゆえにのろわれたものとそして死んだものへと姿を変えて行ってしまいますが、その栄光を自らに残さず神に捧げたとき、神はその栄光をもってさらなる祝福の高みへと私たちを引き上げてくださるのです。
神の喜びが私たちを喜ばせ、私たちの喜びが神を喜ばせる。自らを喜ばせるために自ら生きるのでは決して得られない、死とのろいにはないいのちと祝福の法則、そこに神の国の法則が表われされています。
だから、あなたの目の前に現わされた栄光を心から喜んでください。そしてその栄光は何一つ自分のものでなく、すべて主がなされたことであることをこの喜びを持って告白しましょう。その告白を尽きることのない賛美として神の御前に捧げましょう。そうです。彼こそ今生きて私たちに栄光を見させる神、主に御名に栄光あれ。
私たちが生きることに日々行き詰まり、悩み苦しみ、あなたに叫んだ祈りを、あなたはすべて親しく聞き、すべてを祝福に変えられ、私たちはその栄光を見ました。私たちに何ができたというのでしょうか。人にそのような力があったでしょうか。私たちに何が誇れるでしょうか。誇るとするならば、ただあなたのみ、あなたのゆえにすべてが喜びと変えられたのです。あなたこそ私の喜び、だからあなたの喜びが私の最大の望みなのです。ただあなたの御名にのみ栄光がありますように。とこしえにとこしえにかわらず。ただ主にのみ栄光がありますように。
『一発逆転』人生塾
http://119.go2.jp
Art in Jesus
http://artj.go2.jp
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神は人を通して栄光を現わされるときが多々あります。それは私たちをともに栄光のうちに入れ、ともにその栄光を喜ぶためであり、私たちのような不完全で弱い人という存在だからこそ、その栄光こそ神のものであることがわかるためです。この神の栄光のうちに私たちをひとつとしてくださることこそ、私たちを底まで愛してくださる神の深い愛の現れと言うことができるでしょう。
しかしそのとき、人は目の前に現れた栄光を自分のものとしてしまう、これは自分自身ですらその栄光を握り締めていることに気づかないのですが、そのような性質を持っているのです。それは最初の人アダムとイブが悪魔に騙され、罪を犯し、神に近づくことができない、近づくことを赦されないのろわれた存在となったときから持っているものです。人は神のようになれると騙され、自らが神となり、また神から独立した存在になろうとしたところから起因する最初の罪、神から離れ背を向けて一人で生きようとする罪がここから始ったのです。そのような罪が自らをいかに神から引き離し、神の存在すら忘れ去ってのろわれた中に生きてきたかということは、各々みなさんの過去を振り返るのであればすぐにわかることでしょう。神に出会うまで私たちはそのように生きてきたのですから。
ではこの神が現わされたこの栄光をどのようにして神のものとして私たちは神のもとに帰すことができるのでしょうか?
まさしくそれこそが今日語られる御言葉、人が捧げうるもっとも素直な祈りそのものなのです。
すべての栄光を自らに握り締めるとき、そのすべてのものは私たちのゆえにのろわれたものとそして死んだものへと姿を変えて行ってしまいますが、その栄光を自らに残さず神に捧げたとき、神はその栄光をもってさらなる祝福の高みへと私たちを引き上げてくださるのです。
神の喜びが私たちを喜ばせ、私たちの喜びが神を喜ばせる。自らを喜ばせるために自ら生きるのでは決して得られない、死とのろいにはないいのちと祝福の法則、そこに神の国の法則が表われされています。
だから、あなたの目の前に現わされた栄光を心から喜んでください。そしてその栄光は何一つ自分のものでなく、すべて主がなされたことであることをこの喜びを持って告白しましょう。その告白を尽きることのない賛美として神の御前に捧げましょう。そうです。彼こそ今生きて私たちに栄光を見させる神、主に御名に栄光あれ。
私たちが生きることに日々行き詰まり、悩み苦しみ、あなたに叫んだ祈りを、あなたはすべて親しく聞き、すべてを祝福に変えられ、私たちはその栄光を見ました。私たちに何ができたというのでしょうか。人にそのような力があったでしょうか。私たちに何が誇れるでしょうか。誇るとするならば、ただあなたのみ、あなたのゆえにすべてが喜びと変えられたのです。あなたこそ私の喜び、だからあなたの喜びが私の最大の望みなのです。ただあなたの御名にのみ栄光がありますように。とこしえにとこしえにかわらず。ただ主にのみ栄光がありますように。
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