最近、外を歩いていると「誰かが見ている」というような貼り紙をよく目にするようになりました。
防犯の意味でこのようなものが貼られているのだと思いますが、
一昔前なら、「天が見ている。何でもお見通しだ!」という言われ方だったよなぁと考えていました。
時代劇などを見ると今でも聞かれるそんな言い回し、私にはこの方がよほど怖いことに思えるのです。
他人が見ているのであったとしても、それは所詮人間、いくらでも誤魔化すことができます。
しかし、天からとなると、それこそ悪いこともすべてお見通しとなるわけです。
さらにどのように裁かれてしまうのか?人間じゃないだけになおさら怖い。
人は知らずに、天にいる絶対的存在を心の奥底で感じており、その存在が人間をどのように見ているのかということをどこかで感じていたのでしょう。
悪はそのままでは捨て置かれない、心は見えない秩序があることを知っており、そして、良心の基準としてきました。
さて、ではこの絶対的存在に私たちはどのように映るのでしょうか?
もう少し想像してみましょう。
日常のすべての時間に、自分の内側までもが見通され続けているとしたら。
見せたくない心の中まで見られているとしたら、あなたは耐えられるでしょうか?
心の内側のドロドロ。ねたみ、そねみ、憤り、争い、敵意、欲望・・・
自分でも見たくないほどの恥ずかしい、後ろめたい、このドロドロを自分が持っていることに誰でも気づくでしょう。
残念ながら、法律や道徳では裁けない、このドロドロとした罪を誰しもが等しく持っています。
そしてそれを誰にも知られたくない。隠すためにそれを知る者、それを見張る者から隠れていたいのが人間なのです。

《詩篇 14:1-3》
愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない。ひとりもいない。

聖書で神は全ての人の本質をこのように指摘します。
しかし同時に、ここで言われているように、全ての人は正しくなく、その本質に等しく罪があり、またその罪を裁くことだけが神の本質であったとしたならば、絶対的に正しい神の前に、人は存在すらできないことがわかるでしょう。
けれども、聖書は神が世界を創造し、人間を、そして私たちを創造した神であって、産み出した親としての無償の愛を注ぐ存在であることをも語っています。

《ヨハネの福音書 3:16-17》
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

神は、私たちをあまりに愛するがために、自分の愛する子であるイエスキリストを人間として地に下し、壮絶な苦しみのうちに十字架にかけました。全ての人の罪の代価を、イエスキリストの命によって支払ったのです。
正しいがためにその罪を裁かざるを得ない神が、私たちに生きる道を開くために、痛み、苦しみ、注がれた、この自己犠牲の愛こそが、親としての無償の愛、そしてこの愛こそが神の本質なのです。
もしもあなたが、その心に罪を知り、それが痛く重たいものならば、帰る場所は、この愛の下なのです。


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