『一発逆転』通信

あなたの生活に豊かな彩を・・・ Jesus, You're the Center of my joy.

2017年01月

今日のかて 「心を神と一つに」

【列王記上11:26ー28,37,38】
※この箇所に付随して今日は列王記上11-14章を参照して見てください。

主はヤラベアムをダビデと同様に王として選びました。
神からの彼の選びはダビデと同様に、寡婦の子というイスラエルの中の最も小さい一人であり、忘れ去られるような存在の一人でした。決して歴史の表舞台に出るような人ではなかったかも知れません。
そして、ダビデと同様に忠実に王に仕えるものとなりました。
やがて、ダビデがサウルに命を狙われたように、ソロモンに殺されそうになり、イスラエルがエジプトで長らえたようにエジプトに逃げて、やがてその試練を越えて、ソロモンから国を裂き渡され北イスラエルの王となるため、ソロモンの死後、イスラエルに帰ります。
彼の何が神を喜ばせたのかは私達にはわかりませんが、しかし確かにダビデの歩みと重なるように歩んだ、主に愛され選ばれた王であるという事が、その人生の歩みと神から約束された召しから伺い知ることができます。
問題はここからです。
神はなぜソロモン(正確にはソロモンの子レハベアムからですが)からヤラベアムにイスラエルの国を裂き渡されたのか。
それはソロモンの心が神から離れ、神に背くようになったからです。そしてその現れとして、彼は異邦の神々の祭壇を国に築きました。
彼は多くの異邦人の女達を愛し、彼女達が崇めた異邦の神々の祭壇をエルサレムに建てるに至ったのです。
もちろん神からソロモンは二度も警告を受けましたが、彼はそれを退け、彼の心は神を退け離れていったことがわかります。
つまりは、ソロモンの心が神のものではなくなったから、神はイスラエルの国をヤラベアムに裂き渡したのです。
残ったユダの国は、ダビデとの約束の故にダビデの子孫であるソロモンの子達に残したものに過ぎませんでした。
それをヤラベアムは目の当たりにし、それを理由としてヤラベアムにイスラエルの国を裂き渡すと約束されているのですから、ヤラベアムは如何に神に対して生きるべきか知っていたはずなのです。
しかし、結果はヤラベアム自身が自ら別の祭壇を建て、神に逆らう者となりました。
このことによって、ヤラベアムの子孫はこの地から消え失せることとなりました。
ここでわかることは神の約束は神が語られた通り必ずなります。確かにヤラベアムは北イスラエル王国の初代王となりました。
しかし、彼は神の言葉の全てには忠実ではありませんでした。
もしも彼の心が主だけのものであったなら、彼の目が主だけに注がれていたなら、彼は生涯に渡って神の言葉の全てに忠実に生きることができたでしょう。
でも、彼が王になった時、一度神の約束が成就した時、人の本心はここに現れます。ここに人の高慢と、その高慢の故に神に逆らい立つ心が現れる。
彼の心は王であることを如何に維持するかという所にあり、人々の関心を自らの方に向けようと、自らの得た王の力で、異なる祭壇を、異なる神を自ら造り出したのです。
このつまづきは北イスラエル王国が滅びるに至るまで続く重いものとなりましたし、またユダが滅び行く原因に先立ち、イスラエルが神から背を向ける姿をもってユダをも神から引き離す影響を与えた原因ともなりました。
だから、ヤラベアムの子孫は全て滅び、消滅させられたのです。
私達が神を愛し、神を喜ばせる時、神は私達を愛するがゆえ、私達を選び、神の約束と共に、神の召しを与えられます。
それは神の約束を成就するための大切な働きの召しです。
しかし、それが成就した時、自らに現された神の栄光や、与えられた地位、名誉を自らのものにせんと、心奪われるなら、そのことが神への心を失わせるのです。
神が自分をどれほど愛してくださったのか。
全てが愛すればこそ注がれた一方的な恵み故に神が成された御業であり、自らのものでは何もないこと。
そしてこれほど愛されたからこそ、神のみに心を向け、神だけのものとして神を愛し続けること。
それこそが神の約束を永遠に成就する鍵となります。
ただ単一に一つ心で(全き心で)神を愛し、その心が、その目が、永遠に神から離れないこと。その心が神の心と一つであり続けること。
それに勝って神の御業が成されることも、約束が成就することも、栄光が現されることもありません。

【歴代誌16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

ダビデはただそのように神を愛し続けたのです【列王記上9:4,5】。永遠に。そしてそのことが子孫に及ぶまでの祝福の約束となったのです。

あなたが神様から語りかけられた大切な約束の言葉は何ですか?
もう一度神の愛の原点を思い出し、自分の姿を見てみてください。
全てはそこから始まり、そこから永遠の歩みに至るのですから。


※今日の聖書箇所です。ご参照ください。

【列王記11:26ー28,37,38】
11:26 ゼレダのエフライムびとネバテの子ヤラベアムはソロモンの家来であったが、その母の名はゼルヤといって寡婦であった。彼もまたその手をあげて王に敵した。
11:27 彼が手をあげて、王に敵した事情はこうである。ソロモンはミロを築き、父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。
11:28 ヤラベアムは非常に手腕のある人であったが、ソロモンはこの若者がよく働くのを見て、彼にヨセフの家のすべての強制労働の監督をさせた。
 [中略]
11:37 わたしがあなたを選び、あなたはすべて心の望むところを治めて、イスラエルの上に王となるであろう。
11:38 もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。

【列王記上9:4,5】
9:4 あなたがもし、あなたの父ダビデが歩んだように全き心をもって正しくわたしの前に歩み、すべてわたしが命じたようにおこなって、わたしの定めと、おきてとを守るならば、
9:5 わたしは、あなたの父ダビデに約束して『イスラエルの王位にのぼる人があなたに欠けることはないであろう』と言ったように、あなたのイスラエルに王たる位をながく確保するであろう。

今日のかて 「主の愛に心奪われる」

【士師記14:18】
今日主が私達に語られているのはこの箇所ですが、まずはこの箇所の全体像を理解するため、できれば士師記14章全体に目を通してみてください。
ここにはいくつかのことが謎に包まれ語られていますが、この箇所こそもっとも意味有り気に見えて、謎の深い箇所と言えるでしょう。
彼が異邦人達に問うた謎は、実はこの花嫁によらなければ決して解くことができない神の奥義ということができるでしょう。
まずここが花婿、花嫁の宴ということから、結婚の奥義【エペソ5:31,32】がここに隠されているということがわかります。さらにはこの決してナジル人である者が結婚相手として選ぶことのない異邦人の娘を花嫁にすることが神の御旨にあったことを見るのであれば、まさに今の異邦人に与えられた恵みとしての今の教会とイエスキリストの結婚を意味に含んでいると見ることができるでしょう。(主イエス自身最後の晩餐で語られた言葉にナジル人としての誓願を含む言葉を語られています。【ルカ22:18】)
であるならば、この獅子とその中から蜜が出てくる奥義はどのようなものということができるでしょうか。
「獅子」として出てくる聖書のこれに関わるものとして見ることができるのは、ユダの獅子たる主イエスキリスト、そして聖書に於いて「蜜」は御言葉に喩えられる言葉です。
私達の罪のため十字架の上に裂かれた主イエス、神の言葉(ロゴス)であられる主イエスご自身から神の御言葉が、深遠なる神の御旨が奥義としてその内に隠されているように溢れ出す。
その御旨こそ、キリストと教会が結婚するという聖書の結論たる奥義【黙示録21,22章】。この私達花嫁を買い取るために、主イエスご自身が裂かれ、ご自身の命でその花嫁料を支払われた。それがサムソンの出した問いに見ることのできる神の思いではないでしょうか。
そうした意味で見返すのであれば、この質問が異邦人達に、この宴の場所で問われたということにも頷ける深い意味を知ることができます。
まず異邦人に語られた福音。そしてそれは決して人の知恵、力では解き明かすことのできない、辿り着くことのできない、神から私達への答え、救いという最大の愛。
この最も深く、幸いな事実は、愛により始めて花嫁に明かされる深遠なる事実です。
しかしこの花嫁が心奪われたのは花婿ではなく、自らの命を奪われないことでした。
そして、この異邦人達は自らが物を取られるのを惜しんでこの花嫁を脅迫し、答えを強引に引き出したものでした。
なんと浅ましいことでしょうか。この全ての問いは愛の内に豊かに解き明かされるべきであるのに、異邦人達は殺意で、そして花嫁は愛を売り渡すことで、サムソンからその答えを聞き出そうとするのです。
そして、この花嫁は神の選びの民であるサムソンとの結婚という途方もない恵みすら、他の者との結婚にすり替えてしまうのです。
そして、その結果は花嫁自らが恐れた死そのものでした。【士師記15:6】
私達は主の贖いという恵み、溢るる愛により、やがてこの主の花嫁となるという、人の考えでは決して及ぶことのできない愛の真実を知っています。
それが主に救われた者の最大の望みです。
しかし、もしも私達が目に映る金銀や物に固執するのであれば、この深遠なる愛の本質に辿り着くことはできないでしょう。
またもしも自らの命を惜しむのであれば、それは何を得たとしても、永遠の命を失うものであり【ルカ9:23-26】、また主イエスが私達に与えてくださった愛を売り渡すこととなるのです。

今、私達の心は何に奪われているでしょうか。
主の愛に永遠に心奪われることそれが、主がその命をもって買い取るほどに愛した花嫁である私達に、ふさわしい姿ではないでしょうか。

【雅歌8:6,7】
8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。


※今日の聖書箇所になります。ご参照ください。

【士師記14:18】
14:18 七日目になって、日の没する前に町の人々はサムソンに言った、「蜜より甘いものに何があろう。ししより強いものに何があろう」。サムソンは彼らに言った、「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかった」。

【エペソ5:31,32】
5:31 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
5:32 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。

【ルカ22:18】
22:18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。

【士師記15:6】
15:6 ペリシテびとは言った、「これはだれのしわざか」。人々は言った、「テムナびとの婿サムソンだ。そのしゅうとがサムソンの妻を取り返して、その客であった者に与えたからだ」。そこでペリシテびとは上ってきて彼女とその父の家を火で焼き払った。

【ルカ9:23-26】
9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。

今日のかて 「罪を覆われし者」

【レビ記13:9ー17】
今日主が私達に語られるのは私達の罪の姿です。
レビ記は非常に難解に思われがちですが、それを丁寧に霊的視点で見つめていくのであれば、ただの律法としての形式の問題ではなく、私達の本質的姿が地上に現された型として語られています。
このツァラート(口語訳聖書においてはらい病と訳されていますが、正確にはその訳とは全く異なる病について書かれておりますので、原文と同様ツァラートという言葉で表記させていただきます。)の問題に関しては、ただ突然発祥するものではなく、これは神に対する人の罪がこのような表面に見える形で病として発祥したものとして聖書には語られています【民数記12:9-15】。
そしてその本質がここに、罪の現れとは如何なるものなのかという形で語られているのです。
ここにおいて、皮の下の「生肉」というグロテスクな表現に、目を背けずしっかりと目を向けるのであれば、
まさに人は骨に筋が与えられ、そこに肉を生じさせ、皮で覆ったものにすぎません。【ヨブ記10:11,12】【エゼキエル37:4-6】
私達はどんなに外見をきれいに見せていても、その内側には惨めなことに、罪を求めて止まない人の本質を宿しているのです。【ローマ7:22-24】
ですから、この罪が神により表面に現されているというのが、この病の本質となるのです。
主は罪を重ねる人に、このように御手を置き、さらに罪を重ね続けることがないよう、またこの罪が他の人々に伝え広がることがないよう、聖別の中で取り分け、ツァラートとなった者を宿営の外に出させたのです。
しかし、ここにこの病が全身を覆い白くなった時という不思議な記述を見るのです。
私達がどうしようもなく罪人であるということを知り、この事実を受け入れる時、私達はまるで全身が罪人のように、自らの罪を神の前に恥じ、悔い、苦しむことでしょう。
そして私達は一つの結論に達します。
それはこの罪を贖う贖い主にすがるしか、自らではこの罪をどうにもできないという結論です。
この時、私達はこの罪の自らを携えて、贖い主が待つ十字架の元に身をささげるしかないのです。
その時、主は私達の罪をご自身の十字架の上で流された血潮で真っ白に清めてくださいます。【黙示録7:13,14】
もはや主は私達の罪を見られることなく、主イエスの血を見て、私達を雪のように白いと言われるのです。【イザヤ1:18】
同時に主はこの私達を主ご自身と共に十字架につけられます。そして、私達はこの罪に死に、キリストに生きる者とされるのです。【ローマ6:3-11】
そして私達はキリストを着る者となります。【ガラテヤ3:27】
まさにキリストに覆われ、真っ白く罪を覆われた姿。何と主は憐れみ深い方でしょうか!
罪に覆われていた者が、限りない神の愛、十字架の贖いにより、真っ白いキリストを着る者とされるのです。永遠に。
ですから、私達はこの愛から一歩も出ないよう、この罪を重ね続けるような愚かなことを続けてはなりません。
覆われたこの方を、少しも脱ぎ捨てるようなことを続けてはならないのです。
私達の人としての弱さは、私達を罪に引き戻そうとするかも知れません。
しかし、私達はだからこそ、この十字架の元を一歩も離れはならないのです。
むしろ、この十字架の血潮の内に、釘づけられたキリストご自身の内に、この罪を悔い改める日々の中で、主を本当に喜ばせ、愛することのできる、全き聖いものとされることを、今心から望もうではありませんか。
多くの兄弟姉妹が、信仰の何かしらの活動や、善行、知識を蓄えることや、自らの信仰的に思える何かによって、クリスチャンとしてのクリスチャンらしさを手に入れようと努力します。
しかし、そのことでは、あなた自身の罪の本質は何一つ変わらないばかりか、積み重ねたあらゆることが全く神との関係を変えることなく、心に平安は与えられず、返って積み続けた努力の虚しさと疲れだけを重ねる日々となるのです。
そのため、心が塞ぎ込んで、表面だけでも慰められる、慰めの言葉を求め、その本質は癒えることのない罪から来る報酬としての死に、不安を重ねる日々が続くのです。
もしもあなた自身がそのような中に生きるのであれば、今こそ、命の本質から、新しくされるべき時です。今こそ、十字架の元に自らを携え、罪の根源ごと新たにされるべく、主の贖いの恵み、悔い改めの恵みを受け取りに行くべき時です。
この十字架の道を経ずして、私達は本来信仰者としての道を歩むことはできないのです。
愛する兄弟姉妹、神の民としての集まり、その宿営の中に永遠に生きるために与えられたただ一つの命への道、この十字架の元に今共に集おうではありませんか。

※今日の聖書箇所になります。ご参照ください。
【レビ記13:9ー17】
13:9 もし人にらい病の患部があるならば、その人を祭司のもとに連れて行かなければならない。
13:10 祭司がこれを見て、その皮に白い腫があり、その毛も白く変り、かつその腫に生きた生肉が見えるならば、
13:11 これは古いらい病がその身の皮にあるのであるから、祭司はその人を汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、これを留め置くに及ばない。
13:12 もしらい病が広く皮に出て、そのらい病が、その患者の皮を頭から足まで、ことごとくおおい、祭司の見るところすべてに及んでおれば、
13:13 祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。
13:14 しかし、もし生肉がその人に現れておれば、汚れた者である。
13:15 祭司はその生肉を見て、その人を汚れた者としなければならない。生肉は汚れたものであって、それはらい病である。
13:16 もしまたその生肉が再び白く変るならば、その人は祭司のもとに行かなければならない。
13:17 祭司はその人を見て、もしその患部が白く変っておれば、祭司はその患者を清い者としなければならない。その人は清い者である。

【民数記12:9-15】
12:9 主は彼らにむかい怒りを発して去られた。
12:10 雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、らい病となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女はらい病になっていた。
12:11 そこで、アロンはモーセに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちは愚かなことをして罪を犯しました。どうぞ、その罰をわたしたちに受けさせないでください。
12:12 どうぞ彼女を母の胎から肉が半ば滅びうせて出る死人のようにしないでください」。
12:13 その時モーセは主に呼ばわって言った、「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」。
12:14 主はモーセに言われた、「彼女の父が彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日のあいだ、恥じて身を隠すではないか。彼女を七日のあいだ、宿営の外で閉じこめておかなければならない。その後、連れもどしてもよい」。
12:15 そこでミリアムは七日のあいだ、宿営の外で閉じこめられた。民はミリアムが連れもどされるまでは、道に進まなかった。
【ヨブ記10:11,12】
10:11 あなたは肉と皮とをわたしに着せ、骨と筋とをもってわたしを編み、
10:12 命といつくしみとをわたしに授け、わたしを顧みてわが霊を守られた。

【エゼキエル37:4-6】
37:4 彼はまたわたしに言われた、
、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。

【ローマ7:22-24】
7:22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
7:23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

【黙示録7:13,14】
7:13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。
7:14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

【イザヤ1:18】
1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

【ローマ6:3-11】
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

【ガラテヤ3:27】
3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。

更新再開致します

しばらく、活動をご報告しなくなってから、今日までいかがお過ごしでしたでしょうか?
僕はこれまでの伝道の働きを滞りなく進めて参りました。
人に見えずとも進む神の働きに、心奪われ、気がつけば久方ぶりの更新となります。
ここに至るまで祈り支えてくださった皆様には心より感謝申し上げます。
またしばらく、ホームページを休止している間に皆様には大変ご心配をおかけしたこととも思います。
そういう意味では、休止中にも霊的な戦いは重なり、迫害の手は伸び、働きを破壊しようと悪魔は攻撃の手をゆるめようとしませんが、主ご自身が前を行き、全てに勝利し、全てを主ご自身の栄光と変えてくださるでしょうから、主の御手にゆだねて、更なる働きを進めて参りたいと思います。
ということで、改めて主の豊かな御恵みを、深遠なる主の御言葉の真理を、あわれみに富まれる主の御心を、ゆるゆると共に分かち合うページとして、再び書き綴ることを始めていこうかと考えています。
どうぞ、今後ともお祈りと共に応援のほどを、よろしくお願いいたします。

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。
っと、突然の更新!
いったい何があったのか?
これは気まぐれか?それとも本格再始動ってことなのか?
疑問をいっぱい含めておいて
久々に更新再開のご挨拶です♪

あっ、やっぱりそれとなく再開なのね!
ということで、静かに静かにそれとなく何事もなかったかのように。

今年もよろしくお願いいたします。
プロフィール
Taka♪

新橋駅前広場にて、人生の真実を叫び続ける伝道者、ストリートメッセンジャーのTaka♪です。
Taka♪Profile

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『一発逆転』人生塾
http://119.go2.jp

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