違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、
その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、
また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。
新約聖書 テモテ 6:3-11

私たちの生きる終末の時代は背教の時代です。
救われた者達でさえ、隙あらば神から引き離そうという働きが盛んになる時代です。『知性が腐ってしまって真理を失った(5節)』とあるように、真理でさえ曲げられ、利得のために自分の都合のいいように解釈された教えが溢れ、御言葉を容易に疑い否定する者が争いひしめき合う時代。今の日本がそのような状態にないとはっきり断言できないのは悲しい現実です。
また、そのようなものに惑わされ、せっかく救われた者達が神に再び背を向けるのであれば、さらにそれはなんと悲しいことでしょう。残念ながら、その行き着く先がいかなるものであるかは想像に難くありません。

《ヘブル人 10:26-29》
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

では、一体何が私たちを神から引き離すというのでしょうか。そのキーはここです。「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。(7節)」
私たちが地上で持つものはやがて消え失せるものだとお話しました(http://jalive.jugem.jp/?eid=201)。ですから、私たちは永遠に残る宝に心を置くべきです。そして、その篩(ふるい)分けがここに明確になっているのです。
もしもあなたがイエスキリストの他に何かがなければ生きていけないと考えるものがあるのであれば、そこにその根は存在しています。『イエス様を信じていても、お金もなくちゃ』『信仰と生活は別』『信仰と仕事は別』などと考えることは非常に小さいことのように思われますが、これからの時代には非常に危険な問題です。なぜなら、神の他に必要とするものを手に入れようとあるいは固守しようと、あなたが握り締める手を捕らえて、悪魔はいつでもあなたを神から引き離そうと狙っているからです。これが顕著になるのが終わりの背教の時代なのです。
もう一度言います。天地万物はイエスキリストによって創造されたものであり、この方が万物を今この瞬間においても保たれ、そして、この方が私たちの内に生きておられるのです。この方の中にすべてのものがあり、私たちはこの方の絶大な豊かさに預かっているのです。そうです。この方を信じる信仰により、私たちはすでにすべてのものを溢れるばかりに豊かに与えられているのです。この方こそ、私たちに与えられた永遠の宝、朽ちるほかない私たちの内に住まわれる永遠の命なのです。
この命こそが永遠に残るもの、私たちを永遠に導くのです。
あらゆる誘いに偽られてはいけません。私たちを永遠に生かすのはこのイエスキリストであって、「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていない(使徒4:12)」のです。ゴミ・ガラクタを握り締めて、命を手放し、神に背を向ける者になってはならないのです。
この区分けはやがて明確なものとなるでしょう。終わりの時代にあなたが最後まで信仰を保ち続ける者となることを心から願ってやみません。

主の永遠の祝福があなたの上にとこしえありますように。


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今日のかて
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