『一発逆転』通信

あなたの生活に豊かな彩を・・・ Jesus, You're the Center of my joy.

2009年05月

最初の写真

3115f77c.jpg携帯代わって初めての写真です。
まだ機会のくせがわかってないですね♪
気長に行きましょう。気長に。。。

今日のかて レビ記 20:26

あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。
旧約聖書 レビ記 20:26

神様の神たるご性質は聖です。そうです。神は聖なるお方です。この聖とは私たちの想像をはるかに超えた絶対的な聖を意味します。どのようなものかということは神を目前にした人々(モーセ、ハガル、イザヤ・・・等々)は、その聖の極みに照らし出され、自分の罪のためにこの聖なる方を見て、皆命を失うとさえ思われたほどのものでした。
神様が私たちを引き寄せてくださるとき、ここにこの問題が発生します。神のこの絶対的聖の前に、私たちは本来立つことができないような罪ある者でした。けれども、今私たちが神に近づくことができるということは、傷もしみもない神の子羊イエスキリストが生け贄としてご自身を十字架の上で捧げられ、そのいのちの代価により私たちは贖われ(買い取られ)、その血により、聖とされたことによるです。これこそが神の御旨。神が切望されたことでした。
私たちはキリストに贖われ(買い取られ)たことにより、もはや私は私自身のものではなく、神のもの(神の所有)となったのです。神ご自身が聖ですから、私たちも神のものとなったとき、神により聖とされたのです。そのキリストの流された血潮は私たちの罪を洗い、私たちを血が覆い尽くし、私たちを聖としてくださったのです。
そこまでして、神は私たちを愛されました。私たちをご自分のもの(所有)とし、引き寄せられることを、切実に願われたことの意味とそのキリストにより成し遂げられた業の大きさを知ってください。
だから、神は私たちに聖であれと切望されます。

《新約聖書 ペテロの手紙 1:16》
「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」

どうして、私たちは罪の奴隷として生き続けて良いでしょうか?
どうして、私たちは神のものであることをやめて、神の御手のうちから出てまで、自分のために得たいものなどがあってよいでしょうか?
私たちはこの御手のうちに最高の幸いを、祝福を、持つのです。
どうして、神のものだけに与えられる特権を見失って、これまでの失望と妥協の中に生き続けてよいでしょうか?
あなたはすでに神に選ばれ聖とされた、聖なる民、聖徒なのです。

《新約聖書 ペテロの手紙 2:9》
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

主よ。私はあなたのものです。その愛の中に、その麗しきあなたとの聖なる交わりの中に生かしてくださっていることの、言葉に言い尽くせない素晴らしさのゆえに感謝します。あなたに出会う前は私はこのような愛が存在し、このような喜びがこの世にあることなど想像だにしませんでした。あなたは私があなたの御手のうちを出ることを悲しまれます。私の心が、悲しみや悩みやその他いかなるものによってでも、あなたで満ちているこのところから離れさることを望まれません。アーメン私もそうです。ただ、私はあなたのものです。ここに注がれる限りない平安と限りない愛から私も出たくありません。この聖なる聖なる場所、ただあなたの御手のうちに置
いてください。あなたの僕として、とこしえに。それが私の願いです。

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今日のかて ルカの福音書9:23-24

《 新約聖書 ルカの福音書 9:23-24》
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。

現代の社会においては、大抵の場合、自分を大きくすることを美徳とし、その努力を賞賛する傾向にあります。自分の物を多くし、自分の生活をきらびやかにし、自分の地位や名誉を重んじ一つでも高い地位に上り一つでも多くの栄誉を得ようとし、自分を認めてもらうことを求め、またそのような人々を賞賛しながらそのようになりたいあやかりたいと崇めるようになります。それが健全に見えても建設的生産的に見えても、「自分のために」を基軸に生きていることに変わりはありません。ですから、あらゆるマスメディアや広告や目にする多くの情報には、自分のために、自分好みの、自分探し、自己啓発・・・、多くの場面で、その場合、主語は「私」とか「自分」とかになっているわけです。自己を肥大させそれを「誰かに認めて欲しい、それが自分。」という生き方はこのように社会のあらゆる分野を占拠しているのですが、これはキリストを信じキリストとともに生きる者達であってもその影響下にあります。
しかし、そこに私たちの壁が存在します。

《創世記 3:7》
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。

罪を知らなかった時の人間はその目に神しか映りませんでした。それは私たち自身が神とひとつになって生きていたからであり、神の喜びが自分の喜び、神が私たちのいのちそのものだったからでした。しかし、人に罪が入った途端、人は自分の姿が見え、その罪深さを知ってしまったがため、神の前に立てない者、神から隠れる者となってしまったのです。
そして、神のようになりたいと思った、そのことから、自分を神から独立させた存在としたことにより、人は自分のために、自分の力で生き、自分のいのちの代価を自分で払わなければならなくなりました。これは大変な重荷を負ったことになります。なぜならいのちそのものである神から切り離れた存在でありながら、自分のいのちの代価を自分で払わなければならないのです。自分の中にいのちを探したところでそこにいのちはありません。神にいのちがあるからです。自分でいのちの代価を支払うことはできません。自ら神から切り離れ、神から独立し、神に対立するものとなった。その罪が支払う報酬は死だからです。ですから、私たちはそれこそ死の苦しみを自ら負うことになったのです。

《ガラテヤ人への手紙 2:20》
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

しかし、神はあまりにも大胆な方法で、そのようにどうにもならなくなってしまった私たちを解放してくれました。神は「私」を十字架につけられたのです。そして、いまや「私」は死に、キリストが私たちのうちに生きているのです。こうして私たちは神のうちに一つとして生きる道を回復したのです。
そうです。「私」は死にました。私たちの生活も、持ち物も、必要な物も、私たちのいのちでさえも、私たちのすべてはもはや死んだ私たちのものではなかったのです。すべてはすでに神のもの。すべては神のうちに保たれているのです。私たちはキリストのゆえにすべてを失ったかのように見えて、すべてのものを神のうちに持つ者となったのです。それは私たちがこれまで想像してきたすべてのものというものをはるかに超えて、この天地万物を創造された神の豊かさ、そのすべてを、キリストとともに持つものとなったのです。
これがあなたに与えられている真実です。あなたが十字架に死にキリストが生きることによって与えられた新しい真実です。
私たちを取り巻く現実というものは、私たちを古い思考パターンの中に捕らえようとするかも知れません。しかし、これはキリストによって新生した者の真実。真理はあなたを自由にするのです。

主よ。計り知れない、私たちの想像をはるかに超えた恵みを心から感謝します。私たちのうちに死と復活を、そのキリストの十字架によって、成就してくださったことを感謝します。この世の豊かさをはるかに越えたあなたにある莫大な豊かさに預からせてくださったことに感謝します。どうぞ、私たちに真理を悟らせ、真理によって私たちを聖め別ち、真理によって私たちを自由にしてくださいます。どうぞ、私たちを導いてください。あなたこそ、真理そのものであられる方だからこそ、私を御そば近くに引き寄せてください。感謝します。


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新橋駅前広場にて、人生の真実を叫び続ける伝道者、ストリートメッセンジャーのTaka♪です。
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