『一発逆転』通信

あなたの生活に豊かな彩を・・・ Jesus, You're the Center of my joy.

2008年05月

今日のかて

わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。
だれかわたしに等しい者があるか。その者はそれを示し、またそれを告げ、わが前に言いつらねよ。
旧約聖書 イザヤ書 44:6-7(口語訳)

聖書を貫く最も重要なこと、それは神は唯一であるということです。私たちの知る神のほかに神はいないということです。これは私たちの想像をはるかに超えたこと、人の想像や知恵では決してたどり着くことのできない真実です。
人がどれほど神という存在を想像し、どれほどたくさんの神を作り出そうとも、神と言えるべき存在は他にはありえません。
では、いったい神とはどのような存在だというのでしょうか?
それは彼だけが創造主であり、あとのすべてのものあらゆるものは彼によって造り出されたもの、被造物であります。なぜなら彼だけが全く何もない無から有を造り出せるものであり、他のすべてのものにはその能力はありません。人間の知恵がどれほど進もうと、すべて作り出すものはすでに存在するものを使って作り出すものであり、有から有しか作り出せません。それは私たちが被造物であるからであり、神は創造主だからこそ全くの無から有を造り出せるのです。
この絶対的なことだけは覆すことはできません。でなければ世界が崩壊してしまうからです。
すべてのものは神の存在の元に統べ治められなければ存在すらできません。すべてはただ唯一の存在なる神から造り出され、ただ唯一によって統べ治められなければ、崩壊のないただ一つの秩序によって紡ぎ合わされるようにすべてのものが存在し合うことができなくなるからです。
創造主と被造物の絶対的関係がここに存在します。彼が有るからこそ私たちが有るのです。だから神が始まりであり、終わりでなければならないのです。
そしてその関係の中で創造主が常に変わることなく一方的に被造物に注ぎ続けるもの、それが愛なのです。
生み出した親が生み出された子に一方的に抱き続ける愛の中にはっきりと現わされているように、いやもっと大きく広く長く深く、もっと完全な愛をもって神は私たちを愛しておられるのです。この愛によって私たちは生を受け、この愛によって私たちは支えられ続け、この愛によって私たちは今も存在しているのです。
人間の知恵ではこのような神は想像できず、このように神が唯一な存在であることにはたどり着けないのです。
ではなぜ私たちはこの神を目で見ず手で触れずとも信じられるのでしょうか?
それは神自身が私たちに近づき、ご自分の存在をまた私たちに抱いている愛を私たちにはっきりと現わされたからです。
それがイエスキリストの十字架です。
神の元に立ち返ることこそ、私たちの存在を滅びからいのちに至らせる道です。しかし、人の生まれながらに罪を持ち、つまりただの一つの被造物にすぎない私たちが、創造主なる神の存在に支えられなければ存在すらかなわないのに、自らの存在を自らの手だけによって、あたかも神のように一人で存在しようとし、神から離れた原罪(罪の源)から、数々の罪が生み出されそれを犯し続ける、このことは絶対的に聖なる存在である神への道のりを閉ざすものにほかなりません。
しかし神はご自分の子であり天において神と共におられたキリストをこの地の私たちの元に、つまり私たちの最も汚い罪の元に下して、私たちの罪のために、罪を知らない方を罪として十字架に処罰されることによっていのちの道を開いてくださったのです。
ここに神の存在と愛が紛れもなく現わされているのです。これが神と私たちとの関係です。
この愛を前にこの真実の前に、なおも神から離れておられましょうか。まだ自分の力を頼りに神を頼りとせず生き続け、神を退けるでしょうか。まだ人によって作り出された神とは言えないものを神と言うでしょうか。まだ人によって作り出されたあらゆるものを頼りに生きますか。
神だけがあなたをいのちで満たすのです。どうしてこの神の名を呼び求めないでおられましょうか。
主に立ち返れ。
この名を呼ぶ者を神はその絶大なる愛をもって近づき、ご自分をその愛をなおも現わされるのです。
私たちの小さな愛を最高に込めて、主の名を呼び求めましょう。

主よ!主よ!主よ!あなたこそ神。あなたのほかに神はいません。あなたは私たちのすべてであり、またあなたこそすべての被造物に崇められ讃えらるべき方です。すべての言葉はあなたを讃えるに足りません。ただ私のすべての愛を私のすべてをお捧げします。主にだけ栄光が永遠に変わりなくありますように。


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孤独に呼ばわる声がする

2e87a0af.jpgただ人が優れて見えて
顔を向けられず
自分の姿など
なおも見えない
人が私を麗しいと言っても
いや、愛せらるるはずがない


わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
旧約聖書 イザヤ書 43:4,5

恵雨

968b3710.JPG柔らかい雨が
頬つたう涙に溶けて
心の刺を優しく包み
洗い流していく
そのままに上を向き
今生まれたかのように
天に微笑んだ

見よ
すべてが新しい

ぼぉぉぉ〜

2266053e.jpgあこがれの甲羅干しです♪

久々に

今日は突然思いに導かれるままに新橋の予定を決めてしまったため、ひとりです。でもお陰で離れていても祈りを重ねてくださっているのが見えてくるようです。
これから礼拝を捧げます。
とも我らの主を見上げつつ…

今新橋です

ハレルヤ♪
今十字架を見上げ、主を静かに想いつつ…新橋に着きました。
今日は副鼻腔炎のためここ数日頭が痛かったり、ぼんやりしたりしているのですが、心の深くにあるこのふつふつ燃える思いに従いたいと思っています。
どうぞ体調が癒され支えられるよう続けてお祈りください。
何が待っているでしょうか?
ただそこに臨まれる主にお会いしたく思います。
まずは祈りを捧げるつもりです。
全地をいのちで覆われる主にすべてをゆだねて

在主

◆◇◆◇◆◇◆◇
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今日のかて

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。
旧約聖書 詩篇 42:1,2

私たちが神を求め神を呼ぶ、これほど恵み深いものはありません。神が私たちと直接的関係を持たれる神、親しく私たちと交わられる神だからこそ可能なことです。そう、つまり私たちの呼び声を、叫びを聞いてくださる神がおられるから、神を呼び求めることができるのです。
しかし、この神に私たちが渇きを覚える時があります。たとえば私たちが抱える問題があまりに大きい時、祈りはその問題の解決を祈るのを通り越し、神を求めます。神がおられなければ生きられない。何一つ私たちにできることなどないことを知るからです。そしてすべての解決が神ご自身のうちにあり、この方が現れるときにすべてが満たされるということを知るからです。すべての祝福もいのちも神ご自身のうちにあります。すべてのものに充ち満ちた方が神であり、私たちの歩む人生のあらゆる求め願いもこの方の中にそれを満たすものが満ちており、私たちの思いをはるかに超えてかなえてくださることのできる方です。
私たちは神を知れば知るほど神ご自身を求めます。苦しみの中で、あらゆる願いと求めの中で、神が愛で真実なる方だからこそ、神を求めます。神がご自身を現わされるまで、栄光が現わされるまで、渇き求めます。その求める思いが大きいと、また待ち続ける日々が続くほど、その渇きは大きくなるでしょう。その渇きがひどく苦しくすら感じることもあるでしょう。
御言葉は鹿が谷川の水を求めるように渇き求めとあります。鹿は喉が渇きすぎると喉が張り付いて呼吸ができなくなって死んでしまうのです。それほどまでの渇きを持って神ご自身を求め続ける。こうなるとこの苦しいほどの渇きのため、神は本当に私に答えてくださるのか。いったい神は私をどう愛しているというのか。とさえ思えて来るのが人の心でしょう。神を遠くにすら感じ孤独に苛(さいな)まれることもあるでしょう。
神はいったい何を思われているのでしょうか。
しかし聖書にはこのことに決定的な真実を記しています。
キリストが十字架にかけられた、その上で彼は7つの言葉を残しています。そしてその一つに神の思いが現われています。
「私は渇く。」(ヨハネの福音書 19:28)
彼の渇きには私たちを、私たち自身を求める神の渇きが現れています。すべての権威を持たれ、すべてが彼により作られた、すべてを持っておられた方、栄光に輝く神の御子である方が、あなたを求めてあなたのためにすべてを捨てられた。あなたがいなければすべてのものが何も意味を持たないかのように、あなたを求めた。あなたを買い取るために自らのすべてを投げ出した。惨めで卑しい姿となり、ご自身をも捧げ尽くされた姿。これが十字架です。だからこそ、今も神があなたを愛する愛は変わりなく、私たちの渇きをはるかに超えて、神はあなたを求めてあなたに渇くのです。
「私は渇く」
あなたの渇きは神のこの渇きを知るものです。あなたが神を求めるはるか前から、神はあなたを求めているのです。
あなたはこれほどまでの、神のあなたへの渇きを知っていましたか?あなたは神を求めていますか?
だから、この渇きをもって神を求めましょう。神を待ち望むのです。神のこの渇きを知るとき、果てしない神の愛を深く知ることができるでしょう。そのとき、神は圧倒的な臨在をもって、あなたにご自身を現わしてくださいます。私たちは神の栄光を見るのです。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
旧約聖書 詩篇 42:11

神よ。あなたを求めます。あなただけを求めます。私の人生で必要なものはあなたの他にないのです。あなたは私のすべてだからです。私はあなたが私のためにすべてを捨てられたのを知ったとき、あなたの他に必要なものなどないことを知りました。あなたの十字架の御姿は私のすべてを満たしました。だから私が欠け私が持たないものは、あなたが満たしてくださることを望むのです。この地に何も私を満たすものはないのです。あなたで私を満たして欲しいのです。あなたの与えてくださる恵みではなく、あなたご自身を求めます。あなたが私のいのちとなられたからです。


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今日のかて

《ヨハネの福音書 6:53-56》
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

キリストの流された血潮は私たちの罪を赦し、キリストの十字架で捧げられた肉は罪を犯し続けてしまう性質を持つ、私たちの肉をともに十字架につけ死に葬りました。
そしてこの肉に預かる私たちはキリストのよみがえりとともによみがえり、永遠のいのちを受け、この血によって私たちは永遠に聖められ神の前に義とされるのです。
これまで2回に渡ってお話しして来たことはこのように神が完全に私たちを罪から切り離してくださったことを語っています。

前2回↓
http://snipurl.com/chme03
http://snipurl.com/chme04

キリストの十字架の死と復活の御業は偉大です。
この死と復活によって私たちは古い人からまったく新しい人に生まれ変わったのです。これこそが重要なことです。私たちは神によって全く新しく造られたのです。

《ガラテヤ人への手紙 6:14-15》
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

ですから、私たちにおいて非常に重要なことはこの創造です。そしてこの新しい創造を古き肉の思いに身を任せ罪の働く機会とせず、むしろあらゆる肉の思い、またこの世の誘惑を死に渡すために、すべてがキリストとともに十字架につけられすでに死んだものであるということを私たちは認むべきです。私たちはすでに死んだのです。そして新たにされた私たちは神の思いを全うするものとして神が与えたもうたこの新しいいのちの御霊に従い歩むべきです。

《ローマ人への手紙 8:14-16》
神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

この御霊こそ、私たちをキリストにおいて神の子とする者であり、子たる者が受けるべきすべての特権を受けさせる御子の霊なのです。

《ローマ人への手紙 8:26-27》
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮(きわ)める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

そうです。私たちはどのように歩むべきか、自分の心の中さえも時にはわからないし、ましてや神のみこころがいかなるものかをうかがい知ることができない者でありましたが、この御霊はさらに私たちの助け主となって、私たちの苦しみ思い悩みのすべてを私たちの内からとりなして神への祈りと変えさせ、また私たちに神のみこころを教えさらにそのみこころを全うするところの者となるべく導いてくれるのです。
このように生きて私たちとともに歩んでくださる神が他にいるでしょうか?
このすべてを与えてくださった神を感謝しつつ、この真理が私たちのあらゆる場面でこの御言葉において成就し私たち自身のものとなるようにともに祈りましょう。

主よ。あなたが私たちをまったく新しいものとしてくださったこと、この新しいいのちに感謝します。すべてがあなたの死から始まりました。すべてを負ってくださいました。その限り無い愛から始まったこの新しい創造を感謝します。今あなたがこうしている今も私のうちにあり、親しくこの思いを聞き、またいのちとして脈動しておられることに感謝します。このいのちはあなたのものです。あなたがそのみこころのままに導き、この新しくされた私たちをもって栄光をお受けになりますように。


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ぜひ祈りの力をお貸し下さい

ハレルヤ♪
主の御名を讃美いたします。
いつもお祈り感謝いたします。気管支炎の方は日一日、昨日より今日、先週より今週と少しずつ癒されております。まだ、大きな声で路傍伝道できるまでには回復していませんが、多くの皆さんにご心配頂き、この病を慢性化したり、長期化させないためにも、しっかり完治してから復帰する予定です。引き続きこの病のために、また先日もご報告させていただきましたがその間も続いているインターネット伝道などを含む多くの働きのためにお祈りいただけると幸いです。
さて、今日はもうひとつお祈りいただきたくメールしました。
実は以前新橋の路傍伝道にも参加くださり、いつも祈りの勇士としてともに戦う、伝道への思いをともにひとつにする、僕の友人がいるのですが(Sさんとさせていただきます)、彼女が今ひとりで非常に困難な伝道に立ち向かっています。
というのは最近彼女にやたらと他の宗教(ニューエイジだと思われます)を勧誘してくる男性に会ってしまったそうで、しかしここのところその人を避けようという思いよりも、イエスキリストや聖書を利用して偽りの宗教を語るこの人に、真実の神を伝えなさいという思いが強く迫ってくるのだそうです。
直接話しをするのであれば、何か嫌な感じに圧迫される中で言葉が出てこないけれど、ならばメールで真実の神、真実の救いを伝えることにしようということになり、これからさっそく実行されるそうです。
僕も経験がありますが、そのような場合、霊的戦いが非常に激しくなることが予想されますので、ぜひこのSさんの伝道の戦いのためにお祈りに力をお貸しいただけると幸いです。また必要になりましたら、経過とともご報告すると思いますが、まずは神の知恵が与えられ、メールの文面も神の御言葉とみおもいに満ちたものとなりますように、またこの伝道が勝利のうちに、神のみおもいだけが全うされますようにお祈りください。
ますますこのような悪い霊の働きとの戦い伝道を目前にして、終わりの日が近きことを思わされます。この大切な時にともに目を覚まし、ともに祈り戦ってくださる皆様の祝福をこころよりお祈りいたします。

感謝 


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今日のかて

キリストが十字架で流された血潮は私たちの罪を赦し、私たちを義とされました。私たちのすべての罪は赦されたのです。言い換えるならば私たちの生涯に渡る一つ一つの罪はこの赦しによってすべて解決したのです。
しかしなぜでしょうか。クリスチャンの多くの兄弟姉妹が今もなお罪を犯す自分に苦しんでいます。心の思いは、神に救われ、もう罪を犯したくない、神に近づきたい、神に従いたいと願っても、なぜか神から心が離れてしまう、神に逆らってしまう、神が喜ばないことをわかっていながらしてしまう、罪を犯してしまう。
いったいなぜでしょうか?
聖書は人が肉・心・霊からできており、そこに大きな矛盾が生じていると語っています。

《ローマ人への手紙 7:17-23》
ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

つまり、救われた私たちの心は神に従うことを願っているけれど、それに反して私たちの肉の部分には罪を量産し罪を犯し続ける製造工場としての性質しかなく、ここに矛盾が生じているのです。
しかし聖書は感謝すべきかな、神はこの肉を大胆な方法で破壊し新たなものへと作り変えたと続けて語るのです。

《ローマ人への手紙 8:1-11,13》
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
肉にある者は神を喜ばせることができません。
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
…中略…
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

何と言うことでしょうか。神はこの肉ごとつまり罪の製造工場ごと、キリストの肉にあって罰し、肉を十字架で死に葬ってしまい、さらに彼の霊が神の思いを全うするものとして、私たちをよみがえらせ生かすのだと言うのです。
これは大切な真理です。罪はこの真理により力を削がれ、もう私たちを捕らえることはできなくなったのです。
さあ、十字架を見上げこの真理を我がものとすべく、ともに祈りましょう。

主よ。今私の心、思いごとあなたにお捧げします。肉の思いはすでに死にあなたの思いが私の思いのすべてです。私はあなたのものです。そう、あなたに十字架でいのちを買い取られたあの時から…。


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新橋駅前広場にて、人生の真実を叫び続ける伝道者、ストリートメッセンジャーのTaka♪です。
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