『一発逆転』通信

あなたの生活に豊かな彩を・・・ Jesus, You're the Center of my joy.

いい時代♪

いい時代になりましたね。
今日はお休み中でまったりとYoutubeで昔好きだった曲を聞いています。
さっきはBEGIN今は山崎まさよし・・・そして徳永英明のレイニーブルー


その前聞いた筋肉少女隊のくどさを洗い流してくれました。

今日のかて マタイ 27:46

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
新約聖書 マタイ 27:46

十字架の上でイエスはこのように叫ばれました。
神の御子なる方が神に見捨てられる。このありえない事実が今や私達の真の希望となりました。
この方が見捨てられたからこそ、私達は永遠にそしていかなる時も、神に見捨てられることはないのです。
私達が十字架を仰ぐとき、そこには私達自身の姿が重なります。
彼の死は私達の死であり、だから彼のよみがえりが私達のよみがえりとなったのです。
彼の死が私達の永遠の命となりました
彼の負ったさばきは本来私達の追うべきさばきでした。神は私達の罪のため、罪を知らない方を罪とされ、彼は永遠の滅びを身に負われました。
そして、そのことによって私達は神の前に義(罪なし)とされました。ここに私達の罪は神の義と変えられたのです。
彼の打ち傷が私達を癒し、彼の貧しさが私達を富む者とされたのです。
すべては十字架の上でなされた御業。この十字架が私達自身のものとして、イエスキリストの姿と重なった時、初めて私達は救いの本質を知りまた受け取ることになるのです。
だからこそ、私達は今日も十字架を見上げ、そこにイエスの御姿と自分の姿を見るのです。
私達を囲む現実は確かに決して軽いものではないかも知れません。この国の状況は3月11日を境にたった一日で激変し、その後に待つ日本の将来を人の目で見るのであれば、希望を見出すのは難しいように見えるかもしれません。
ある人は悲しみの中、悩みの中、苦しみの中、絶望しそうになるかも知れません。
神に見捨てられてしまったのかと、現実を、自分の姿を見て嘆くこともあるかも知れません。
しかし、この見捨てられた神の姿を見てください。だからあなたは神に見捨てられることはないのです。
神の痛みの姿を見てください。だからあなたの痛みは癒されるのです。
十字架の上のイエスの死の姿を見てください。だからあなたはよみがえるのです。
永遠に消えることのない、信仰と希望と愛はここに顕されているのです。
これは決して変わることがないのです。
さあ、共に十字架を見上げましょう。

主よ。ただあなたの十字架の愛に感謝します。あなたは私に何一つよらず、その十字架の御業を私の内に完成してくださいました。これは天地が滅びようとも揺るぐことのない事実。私はこの十字架を私の唯一の避け所とします。全ての希望はここに溢れ、全てのものがここに備えられているからです。私をとこしえに愛してくださるあなたの深い愛をこの御姿に見上げます。私は、あなたととこしえに一つとされたこの十字架の上に、永遠の幸いを見出します。だから主よ。心からあなたに感謝します。だから主よ。あなたにのみ栄光が帰されますように。



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今日のかて 創世記 18:20-32

創世記 18:20-32
そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。
わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」
その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。
アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。
正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」
主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」
アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。
もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」
そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」
また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」
彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」
彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

今私達の国に起こっている現状を目の当たりにする時、言葉を失います。
この現実に目を背けることはできません。慰め、励まし、戒め、あらゆる人の思いでこの現実を乗り越えようとしても、ここから語られる主の問いかけから、私達は逃げることはできません。
事実この国は今のままならば最後の審判の火から逃れることはできないでしょう。確かにそれは主イエスの一方的な恵み十字架を拒絶したからであり、神の御怒り、審判の火からの救いを拒絶した者には永遠の滅び以外に道は残されていません。ただ救い主イエスを信じ受け入れるというあまりに低い条件は、神のあわれみのゆえであり、侮(あなど)られるものではありません。しかし主の名を侮る者が溢れるこの国の未来は、確かに私達が眼前に見る光景をはるかに越えて悲惨なものです。
永遠の滅びの火は今私達を悩ます原発事故の火よりも比較にならぬ激しいもの、死の毒である罪は撒き散らされる放射能よりも悪性で、やはり目には見えず、知らないうちに人々を死に引きずりこみます。
そして多くの人々の魂が永遠の火の中にどんどんと眼前で落ちいくのです。
主の目には、この国が永遠の滅びに一直線に向かい、もう後がないように映っていることでしょう。
なぜなら、誰にでもわかるビジュアル的な形で、目にはっきりとわかるよう、主の目に見えているものを私達は警告として今見せられているのです。
霊的な世界で見えていることはやがて現実の世界に実体化します。ですからこのままならば、この国はこの現実世界の滅びに飲み込まれて行くでしょう。
霊的世界で主が私達に語りかけていることを逃れて、どうして現実世界の危機から逃れることができましょう。
ただ私達が唯一主イエスが救い主と知る者なのです。彼から直接この地に遣わされた私達の存在理由は、ここにあるのではないでしょうか。
この国の永遠の滅びへの破れ口に立ち、主にとりなしを祈ることができるのは私達だけです。
そして、この滅びの現実の前に断腸の思いで立たれる主の痛みを癒すために生きることができるのは私達だけなのです。
この事実を前に、あなたはどう主の前に立ちますか?どう生きますか?

主よ。私達の罪を御赦しください。あなたを退け否み侮った私達を御赦しください。どうかあなたのこの思いを軽んじ破れ口に立たなかった私達を御赦してください。私達の罪を覆うのはあなたのあわれみだけです。どうか、この国を私達をあわれんでください。どうか、あなたご自身のあわれみによって、あなたのこの断腸の痛みを静めてくださいますように。


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今日のかて コリント 5:9,10

そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
新約聖書 コリント人への手紙? 5:9,10

主に喜ばれること。自分を喜ばせること。
サウルとダビデの歩みに明暗が分かれたのは単純にここにあるのではないのかと思います。神からイスラエルの王として選ばれた。その選びとしてはこの二人に全くの差はありません。しかし、二人の見つめる先、その視点の差は彼らの人生を明確に分けました。彼らの視点の先が神なのか自分なのか、そのような考えで二人の人生を列王記の中から、あるいは詩篇のダビデの祈りの中から見るのであれば、その差がはっきりしていることを発見できるでしょう。
では、私達自身はどこにその満足を求めているでしょか?
自分が満足する、自分を喜ばせるために生きているでしょうか?
神が満足する、神を喜ばせるために生きているでしょうか?
多くの人は自分のために神を信じます。信じることによって自分の人生が満足するように生きようとするからです。自分の問題解決のために、自分の目標達成のために、自分の人生が満足するために、自分が輝くために・・・。
この観点の中心にあるのは自分です。今の社会(世)はこのような考えを中心に動いていますから、この考えはクリスチャンにおいてもごく自然の考えのように思われます。ですから、自分を満足させるためというのは小さいことのように思われます。しかし、ここに自分のために神を利用しようとするという恐ろしい構図を自分の中に見るのです。神を従えようとする者。恐ろしいのはその姿は悪魔の姿と一致していると言うことです。「自分」はこのように肥大していきます。
自分は自分を捕らえ、死に向かって束縛します。私はこれを自分地獄と呼ぶのですが、自分を自分の力で生かそうとする思考つまり肉は肉のことしか思わず、神に逆らい、肉の思うことは死そのものです。

《ローマ 8:5-7》
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。

いつまでも、自分の中に生きることを神は望みません。その将来が死なのか、命なのか、結果ははっきりとしていて、間は存在しないからです。主は私達の視点が自分自身から離され、主のみに向けられることを願われます。
なぜなら、私(自分)はすでに十字架につけられ死んでいるからです。もう死んでいるものを生かそうとして、さらに死に向かい、死に束縛されることは私達にふさわしくありません。死んだ自分から目を離し、主イエスキリストにこそ目を離さないでいるべきです。そこに命があり、そこに愛があるからです。
そして、この方のために、主の喜びを求めて生きる生き方は、この地上での報いから目を離し、語り尽くすことのできない神からの絶大な永遠の報いを得ることに通じるということが今日の箇所からわかります。
地上の報いはすぐに朽ち果て、限りのあるのものです。それだけを求めて死に至ることは愚かしいことです。しかし主の喜びを求めて永遠の報いに至ることは、自らの限られた肉体の命よりも、はるかに絶大な価値のある宝を得ることなのです。地上のことはそれに添えてすべて与えられているのです。
私達の視点はどこに向けられているでしょうか。
私達が本来どのような者であるのか、もう一度ここから共に考えて行きましょう。

《コリント? 5:14,15》
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。


主よ。私達の目が私自身に向けられていることを今悔い改めます。なぜなら、私達をあなたが喜び、私達の存在があなたの喜びであることを知るからです。私達の冷めた愛があなたをどれほどに退け、あなたを悲しませていることでしょう。私達の心があなたを喜ばせることを求めず、あなたを愛するのみに生きていないことを、悔い改めます。ただあなたの喜びのためにのみ、私達を生かしてください。その喜びを、それにより与えられるあなたの報いを、その価値を私達に示してください。万物はあなたの喜びのために造られ、すべての者の唇はあなたを喜びあなたを賛美するために造られたのですから。私達を本来あるべき姿に生かしてくださいますように。
導いてくださいますように。


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今日のかて 1ヨハネ 5:4,5

なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
新約聖書 ヨハネの手紙 5:4,5

主イエスキリストの十字架によってなされた勝利は永遠の勝利です。イエスは私達の生涯のすべてに勝利をしたのです。主は私達のこの地上で戦うべき相手すべてに勝利をされたのです。罪に勝ち、死に勝ち、世に勝ち、あらゆることに勝利し、悪魔に勝たれたのです。

●世に勝利
《ヨハネ 16:33》
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
●罪と死に勝利
《コリント 15:55,56》
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
●罪と責め立てる者に勝利
《コロサイ 2:14,15》
いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
●あらゆることに勝利
《ローマ 8:37》
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
●悪魔に勝利
《ヘブル 2:14,15》
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

私達が主の勝利を宣言する時、すでに神が勝ち取られた勝利が、信仰の確信により現実に実体化されます(ヘブル 11:1)。反対に存在しない敗北を自分で告白するとそれを受け入れ勝利の事実は覆われてしまいます。私達が主を信じ神の御子を受け入れた事実、主がつけられた十字架を私のものとして受け入れたという事実自体が、主が私達の中に勝利を得られた事実をあらわします。イエスへの信仰そのものが勝利なのです。これは主の勝利です。それは完全な勝利、永遠の勝利です。どうしてありもしない敗北を認めなければならないのでしょうか。
私達が私達の力で勝利を得なければならないのであれば、確かにそのような何とも不安定なものでしょう。しかしこれは主が勝ち取られた完全な勝利なのです。すでに成就したのです。私達が十字架を否めないように、主の勝利も否めないのです。
あなたの救われた事実こそが主の勝利です。その勝利をあらゆる場面で宣言してください。自分の救いの確信とともに、勝利を確信し、宣言してください。「主はすでに勝利を得られている」と。御言葉と共にすでに成就され完了された勝利を宣言してください。
この勝利の宣言と信仰が実体化することにより、私達はあらゆる場所、領域、分野に勝利をあらわすのです。それは主の勝利なのです。
悪魔はこの事実を恐れます。私達がそれを知り実行することを怖がるのです。だから私達を偽り、その事実を隠し、得させないようにするのです。しかし、悪魔は完全に敗北し滅び、さばかれているのです。だから悪魔はむしろ私達を恐れているのです。私達はこの悪魔に完全に勝利をされた主イエスキリストのからだとされた教会なのです。なぜ根拠もない恐れに陥る必要があるのでしょうか。
今も私達に永遠に注がれるキリストの血潮と、主の勝利を証しする勝利の宣言によって、悪魔に打ち勝つことは主の聖徒、主の教会に与えられた命題です。私達がこの地上にいる(遣わされている)限り、私達は主の勝利をこのように勝ち得る必要があります。
愛する兄弟姉妹の皆さん、どうか恐れないでください。偽られないでください。あなたのすべてを主は勝利されているのです。主にあって全てのことに勝利をしてください。それはすでに完了した事実なのですから。

《ヨハネの黙示録 12:11》
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。
※彼=悪魔


主の勝利を宣言します。主の血潮を宣言します。主の十字架を宣言します。主が私達のうちに勝利を得られたことを宣言します。今この地で戦いの中にある兄弟姉妹が遣わされている全ての場所で勝利を得るよう、主の全知全能の御力が導いてくださるよう願います。それはあなたが召し集められた教会を通して、あなたの勝利が顕されるためです。主の栄光が顕されるためです。どうか主のみこころを成してください。主のとこしえの勝利を高らかに宣言します。



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今日のかて 黙示録 12:11

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。
新約聖書 ヨハネの黙示録 12:11

主イエスキリストは十字架によって、約2000年前にすでに勝利を得られました。この勝利は完全な形で成就したものであり、変わることのない絶対的な真理です。
私たちは、イエスを唯一の救い主として信じ救われたその日から、この絶対的な勝利に預かります。つまり、ひとたび私達のうちに打ち立てられた十字架の勝利は永遠に変わることはありません。たとえ天地が滅びても、主の勝利は永遠に変わることはないのです。
この事実は私達の日常を一変させます。
なぜなら、この真理は必然的に、私達が人生のあらゆる面で勝利していることを表すからです。
これは私達においてはすべての時、すべての事柄、人生の全領域に対して、適応されるべき事実です。でなければ、主の勝利をどこか欠けたもののように私達自身が否定することになるからです。
すべてのことおいて主が勝利をすることは必然であり、その勝利を私達自身が曲げてはいけません。それは神に対する不信から出るものであり、また十字架の事実に私達が対立することにさえなるからです。
私達は信仰生活の中で、あるいは祈りの中で、主の勝利にこだわって来たでしょうか?
時として、私達は問題に対して不安・恐れ・疑いを抱きます。神の真理に立とうとしても恐怖や不信が自分の心をつかみ、立つことすらできないように思われ、祈りに力が失われることあるいは祈ることさえできないように思うこともあるでしょう。
問題である現実がその不安・恐れ・疑いの原因のように思われているでしょうか。
そこに信仰を持つことができないように考えていないでしょうか。
しかしその不安に落としめているように思えている現実は、実はその不安・恐れ・疑い自体と何ら関連がありません。また現実に目で見ている事実は、あなたの未来に何ら関連を持っていません。つまり何かの事実があるから、未来がこのようになるというようなことは、何一つありません。

《ヘブル人 11:3》
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

であるなら、私を不安に陥れているものは何でしょうか。あるいはそれはどこから来るものなのでしょうか。
それこそサタン(悪魔)の仕業です。ですが、死の恐怖の奴隷とする死の力を持つ悪魔が私達と何の関係があるでしょうか。
なぜなら主はそれらのものに完全に勝利をされ、彼らはすでに滅ぼされているからです。


《ヘブル人への手紙 2:14,15》
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

キリストの勝利を常に宣言することは神のみこころです。そのことによって私達は、これまで不安・恐れ・疑い(不信)を踏み台にされて悪魔に奪われていたものを、勝利の内にすべて取り返すべきです。
何一つ奪われてはなりません。これは主の戦いであり、すでに成し遂げられた勝利だからです。主の統治が私達の場所から何一つ侵されてはならないからです。
そして私個人のうちにひとたび打ち立てられた主の十字架による勝利は、高らかに宣言され、地の果てにまで響き渡るべきなのです。
主の十字架の勝利を土台に揺るぐことなく祈る時、私達はあらゆる分野に関して、疑うことなく恐れることなく祈ることができます。そのことによってその分野に主の勝利は顕現するのです。それを見た者達は主の御名を高らかに賛美するでしょう。
主の勝利はそのようなものです。個人の生活の中で何一つ引き下がることなく、高らかに宣言されるべきものです。
さらに、これは私達の何ものにもよりません。あらゆる経験・常識・法則・行動・・・何一つ私からのもので打ち立てられた勝利ではありません。だからそれに頼ることなく祈ることができるのです。むしろそれに頼って祈ることが、いかに貧弱な事実に頼ろうとしていたのかがわかるでしょう。
そう、それは唯一なる神、主イエスキリストの尊い血潮によってのみ打ち立てられた勝利です。この代価なしには勝利はありえません。
このイエスの血潮と、主が私達の内に打ち立てられた十字架の勝利を宣言する証しの言葉によって、私達は勝利に勝利を重ねて生きるのです。
これが私達黙示録の時代に生きるキリスト者すべてに課せられた勝利の生き方なのです。

今、主の十字架の勝利を高々と宣言します。主は私の内に完全なる勝利をおさめてくださいました。主よ。心から感謝します。



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『一発逆転』人生塾 vol.62

「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
新約聖書 マタイの福音書 1:23

誰でも世(世界・社会)が真っ暗に見え、また自分の足元までも暗く目に映るのであれば、希望の光を探すのは当たり前です。誰でも自分の人生を導く光輝く星を、真っ暗な夜空に探すでしょう。
これまでの社会は自分の実力や持ち物、お金や身分や地位などを頼りに生きてきたでしょう。そこにこそ確かな希望があるかのように社会構造は作られてきましたし、そのような常識の中に私達は生まれ、その中で日々生活してきました。社会はある道筋に沿えば、盤石に私達を守ってくれると思われていたのです。ですから、それを覆すような時代に遭遇した時、誰もが希望はどこにあるのかと、混乱することでしょう。
現在、世界中を襲う未曾有の経済危機と、歴史上稀と言われる災害や異常気象の数々、その中で飛び交う憶測と混乱した情報。人類の終末をも語られる時代の真っ只中で、人間の力ではどうにもできない圧倒的な死の恐怖が私達の日常に入り込んできている毎日。これこそ、暗い夜空に違いありません。
だからこそ、あなたは本当にあなたの人生を導く希望の星が、どこにあるのかを知らなければなりません。もしもあなたがその星を見誤らないのであれば、あなたは永遠に至るまでの真の希望にたどり着くことは可能です。
かつて、ソロモン王国時代に栄華を極めた一大王国イスラエル。やがてイスラエルは没落し、ローマに支配されていた暗黒の時代、人々は一つの約束を希望に生きていました。重い税義務、払えなければ娘息子をも債務のため連れて行かれる。国を奪われ、違う民族に隷属される生活。そんな過酷な状況の中、抱き続け心を支え続けた希望。
"私達に真の救いを与える、救い主が地上に降られる。"
それはいにしえからの預言に語り伝えられていることでした。
そして預言はそのまま、ベツレヘムの小さな家畜小屋に生まれた救い主イエスキリストの降誕という形で成就したのです。その誕生を知らされ、その救い主に出会えたのは、社会のエリートや成功者、強い者達、大きい者達、偉い者達ではありませんでした。
当時過酷な生活を強いられ、貧しく、社会から離れた場所に生活を余儀なくされていた、社会的に最も小さな存在というべき人々。つまり、最も暗い人生を歩んでいたであろう羊飼い達に、この幸いの知らせは御使いによって伝えられました。また、当時考えられていた救いの対象はイスラエルの民とばかり思われていましたが、東のイスラエルではない異邦の国に住む博士(おそらく天文学者など)に、その事実は知られ、はるばる遠く離れた国から彼等は救い主を求めてイスラエルに向かったのです。
彼等を救い主の元に導いたのはまさしく天に輝く一つの星でした。その星のとどまったところで彼らは救い主に出会ったのです。
彼こそ、最も弱く最も小さく最も貧しく傷つき最も汚れた(罪深き)者達に救いを与えるため、そのすべてを負うべく、最も低く最も貧しい最も汚く最も暗い場所に生まれた救い主イエスキリストです。その生涯を私たちの苦しみ悩みを背負い、十字架にすべての罪から来る死という報酬を釘付けにするまで、命をささげた神。彼は十字架に死した後、三日目に死に打ち勝たれた真の勝利者としてよみがえられた(復活された)のです。
そして、この救い主の誕生を祝う祭こそがクリスマスなのです。
この救いは時代を超え、今私達に与えられています。
救い主イエスキリストは今も生きて、私達の人生を直接救う神なのです。イエスキリストを信じ受け入れる者達に、この救いは与えられるのです。どれ程弱く、小さく、貧しく、傷つき、汚れて(罪深く)いたとしても。彼の十字架は彼を信じ受け入れる者達のそれらすべてを釘づけにし、信じる者に新しいご自身の命を与えられるのです。過去はその命の代価に贖われ(買い取られ)、永遠の未来に至るまでの"永遠の命"が与えられ、死をも超える永遠の希望が与えられるのです。多くのキリストを信じる者達は、その偉大な価値のゆえに、肉体の死をも恐れず、永遠の命に生きました。死の恐怖に捕らえられる事なく、自由に生き、彼等をとどめる者はこの地
上には存在しなかったのです。つまり、今生きる現在において死を超える勝利者となったのです。
あなたが主イエスキリストを信じ受け入れる時、このような過去・現在・未来が与えられる真の希望を与えられるのです。それはあらゆる環境・状況・法則を超えて、与えられるもの、それを得た時この世では与えられることのない、神からしか受け取ることのできない深い平安を与えられるのです。
これが神が私達に与えてくれた本当のクリスマスプレゼントです。
今年あなたがこの最大のクリスマスプレゼントを受け取ることできますように。

ひとつのねがい

73c6c87b.jpgあの日君と夜空の星を数えた夜
僕は本当は希望に導く星を探していたんだ
だから僕は今も
こんな夜空が真っ暗になってしまっても
ただ一つ輝くはずの希望の星を探してる
君と僕の未来に光があるように

《マタイの福音書 1:23》
「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
《マタイの福音書 2:9》
見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。

今日のかて ヨハネ 1:14,16-18

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
・・・中略・・・
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
新約聖書 ヨハネの福音書 1:14,16-18

主イエスキリスト、救い主なる方が地上に降られたことは言葉に尽くせない神の尊大な計画であり揺るぐことのない真実です。それまでの時代の多くの預言者や義人たちはどんなにそれを見たいと切に願っても、それを見られませんでした。主が地上に住まわれるなど、つまり永遠であり、無限であり、天地を創造し今も保たれる神である方をお迎えできる場所などこの地上にはない、ありえないことだったからです。しかし主はそのことを事実とするため、豊かさに満ち溢れた神の御子なる神である方が、そのすべてを捨てられ、有限である人間の肉体の中に、それもすべての人々を救うために最も貧しい者の姿をとって、この地上に住まわれました。「私たちの
間に住まわれた(14節)」の言葉は本来は私たちの間に幕屋を張られたという意味です。幕屋こそ神の住まう場所、地上を寄留者のように歩むための移動式の神殿、キリストはそのように人なり地上に住まわれたのです。
そうです。神の統治がこの地に来たのです。直接の統治、神の国はこのように近づいたのです。それまでの時代と一線を画す事実が、ここにあるのです。
神を見た者はいませんが、御子なる神のみが神をあらわし、そのことによって私たちは初めて神を見ることをゆるされました。地上に住まわれたキリストの姿、語られた御言葉、十字架の死とよみがえりに、私たちは初めて神をリアルに事実として知ることができるのです。
さらに驚くべきは、その後天に上げられ神の右の座に着かれましたが、そのことによって私たちの内に聖霊なる神が降り注ぎ住まわれたのです。キリストご自身、キリストのいのち、創造主なる父なる神、この三位一体の神が、この聖霊が住まうということによって、私たちの内に幕屋を張られたのです。

《コリント人への手紙? 6:16》
私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

何と驚くべきことを神はなされたのでしょうか。
何と畏るべきものを私たちに与えてくださったのでしょうか。
何と言う愛でしょうか。ご自身を与えて、私たちをこのような者としてくださるとは。
主はご自身の命によって私たちを統べ治めるということにより、私たちを神の国に入れてくださったのです。御子を与えてくださったことにより私たちは父からすべてのものが与えられ(ローマ 8:32)、受け継ぐべき相続地である新しい天と地(天国)を入れるばかりか与えられているのです(
エペソ 1:14)。

《ローマ人への手紙 8:32》
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
《エペソ人への手紙 1:14》
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。

クリスマスは主イエスキリストの降誕を想い、祝う日です。クリスマスプレゼントを交換するだけの日でないことは、私たちは充分承知でしょう。この地上のささやかな栄光や豊かさを求めて、主の降誕を地に引き落とすことがないよう、私たちもこの地上のものに引き下げられて、私たちが本来神から与えられている永遠の宝を失うことがないように、心から願います。終末の時代は聖徒をも惑わす背教の時代です。ひとたび信仰を見つめ直して参りましょう。


主よ。あなたのあわれみは愛は尽きることがありません。あなたが与えてくださった豊かさは日々溢れています。あなたの命は今日も私を生かしています。そしてこの死ぬはずであった者が、いや死んでいた者が永遠に生きるものとされているのです。それはただあなたの流された血によるものです。あなたの払われた代価のあまりの大きさとそれにより与えられている永遠の宝に私は今日も声を失います。ただ主を讃えます。すべてはあなたの栄光のゆえに。ただ主を讃えます。私たちをあなたの命によって統べ治めてください。


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今日のかて ヨハネ 1:9-13

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
新約聖書 ヨハネの福音書 1:9-13

主イエスキリストの誕生を祝うクリスマス。それを待ち望む40日間、今はそのアドベント(待降節)の時期にあります。私たちが主を待ち望むのはすでにこの地に生まれて下さったキリストの降誕に思いを巡らすと同時に、やがて私たちキリストの花嫁を迎えに花婿キリストがこの地に来られる日を待ち望む思いとも重なるものではないでしょうか。
しかし、最初にイエスキリストが地上に降られたとき、彼は彼の民(私たち)に拒絶され、その人生すべてを通して人々に拒絶され続け、十字架にまでかけられ地から除かれたのです。確かにそのことによって、贖いの御業は完成し、私達はそのことによって救いの恵みに預かっています。けれども、同時に主がどれほどに私たちを求め私たちに渇いておられたのかを今強く思うのです。
愛され迎えられるべき方が、そのご自分の民に拒絶をされる。愛されるべき者が愛されない悲しみと渇き。
十字架の上で「わたしは渇く。(ルカ 19:28)」と言われた主の私たちを求める声が胸に刺さるのです。
私達はどれほどに彼を愛しているでしょうか?
彼の渇きを潤すほどに彼を愛しているでしょうか?
彼が命を私たちに与え私たちを愛したほどに、彼を求め愛しているのでしょうか?
愛されるべき花婿に私たち花嫁は形だけの冷え切った愛をささげていないでしょうか?

主の降誕を思い待ち望むこのとき、ひとたびやがて来られる花婿なる主の、今も私たちに向けられておられる深い渇きを覚えて、主を心から待ち望みたいと思います。

主よ。私達はあなたの花嫁。あなたのものです。あなたが一心に渇き求めておられる私たち自身を、あなたにおささげしたく願います。 どうか私たちをあなたの花嫁としてふさわしいように整
えてください。ただあなただけを愛する者として、無垢な愛を育んで下さいますように。やがて花婿なるあなたが私たちを迎えてくださる、そのことを希望にただあなたをこい慕い、待ち望みます。アーメン主イエスよ。来たりませ。

今日のかて テモテ 6:3-11

違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、
その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、
また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。
新約聖書 テモテ 6:3-11

私たちの生きる終末の時代は背教の時代です。
救われた者達でさえ、隙あらば神から引き離そうという働きが盛んになる時代です。『知性が腐ってしまって真理を失った(5節)』とあるように、真理でさえ曲げられ、利得のために自分の都合のいいように解釈された教えが溢れ、御言葉を容易に疑い否定する者が争いひしめき合う時代。今の日本がそのような状態にないとはっきり断言できないのは悲しい現実です。
また、そのようなものに惑わされ、せっかく救われた者達が神に再び背を向けるのであれば、さらにそれはなんと悲しいことでしょう。残念ながら、その行き着く先がいかなるものであるかは想像に難くありません。

《ヘブル人 10:26-29》
もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

では、一体何が私たちを神から引き離すというのでしょうか。そのキーはここです。「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。(7節)」
私たちが地上で持つものはやがて消え失せるものだとお話しました(http://jalive.jugem.jp/?eid=201)。ですから、私たちは永遠に残る宝に心を置くべきです。そして、その篩(ふるい)分けがここに明確になっているのです。
もしもあなたがイエスキリストの他に何かがなければ生きていけないと考えるものがあるのであれば、そこにその根は存在しています。『イエス様を信じていても、お金もなくちゃ』『信仰と生活は別』『信仰と仕事は別』などと考えることは非常に小さいことのように思われますが、これからの時代には非常に危険な問題です。なぜなら、神の他に必要とするものを手に入れようとあるいは固守しようと、あなたが握り締める手を捕らえて、悪魔はいつでもあなたを神から引き離そうと狙っているからです。これが顕著になるのが終わりの背教の時代なのです。
もう一度言います。天地万物はイエスキリストによって創造されたものであり、この方が万物を今この瞬間においても保たれ、そして、この方が私たちの内に生きておられるのです。この方の中にすべてのものがあり、私たちはこの方の絶大な豊かさに預かっているのです。そうです。この方を信じる信仰により、私たちはすでにすべてのものを溢れるばかりに豊かに与えられているのです。この方こそ、私たちに与えられた永遠の宝、朽ちるほかない私たちの内に住まわれる永遠の命なのです。
この命こそが永遠に残るもの、私たちを永遠に導くのです。
あらゆる誘いに偽られてはいけません。私たちを永遠に生かすのはこのイエスキリストであって、「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていない(使徒4:12)」のです。ゴミ・ガラクタを握り締めて、命を手放し、神に背を向ける者になってはならないのです。
この区分けはやがて明確なものとなるでしょう。終わりの時代にあなたが最後まで信仰を保ち続ける者となることを心から願ってやみません。

主の永遠の祝福があなたの上にとこしえありますように。


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今日のかて マタイ 14:13-21

イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。
夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
新約聖書 マタイの福音書 14:13-21

先日は終末の時代に必要な信仰として、バプテスマのヨハネ殉教後の、2つの奇跡について、そのひとつ水の上を歩むキリストとペテロについてのお話をしました。
(http://jalive.jugem.jp/?eid=200)
これは個人個人がこれからの時代に持って生きるべき信仰と言えるでしょう。そして今日の箇所に表されている奇跡はそれに対を成す、大勢の人々の間になされた奇跡。ここに私たちは終末にあるべき教会の姿の一端を見ることができます。
前の奇跡においてもペテロも水の上を歩く奇跡に預かったように、この奇跡もキリストのみによって成し遂げられたという類いのものではなく、多くの人がこの奇跡に預かる者となりました。この奇跡は弟子たちと、パンと魚を持ってきた少年(ヨハネ6:9)が携わって初めて成された奇跡なのです。
拠り所のない、逆境の只中に生きる多くの人々がこのときイエスを求めて集まっていました。イエスはその人々を哀れみ、癒されまた教えられましたが、この場所は何もないさびしい場所であり、時は夕時そのまま放っておけば、イエスに拠り所を求めた者たちが返って空腹に弱り果ててしまったでしょう。あるいは弟子達の頭にはそれを想像し、しかし、それを満たすほどの食事を配布するなどということは人間の考えではとても足りない愚かなことと見えたでしょうから、人々を解散させようと考えました。しかし、それがこの状況を根本的に解決することにはならないことは容易に想像できたでしょう。
しかし、イエスがここで現実に成された奇跡はイエスを信じる者たちを通して神の豊かさに預かり、全員が満腹してなお余りあるというものでした。
この奇跡はパンを裂いた、つまりイエスがご自身を裂かれて与えた肉に預かり、流された血に預かることによって初めて命を得ること(ヨハネ6章)につながる奇跡であり、キリストを信じこの血と肉に預かることによって、キリストを頭とする一つのからだとされたのが、エクレシア(神に召し集められた者。=教会)です。
主はご自身が召し集めた者、ここでは弟子たちが自分の手でこれを配ることを命じました。私たちはこのようにキリストの命を自分の手で直接行き渡らせることに預かっています。
そして、そのすべては神の前に捧げられたとても小さなささげもの(小さな存在でしかない一人の少年がささげた小さなささげもの)から始められたのです。主はその小さなささげものを喜び裂いて、大きなものとされ、それによりそこにいるすべての人を満たして余りある神の豊かさに預からせてくださいました。いや、この奇跡自体の始まりは、人知れず自分の命を裂いてささげたヨハネのささげものから、始まったものと言えるのかもしれません。
キリストの命に預かりひとつとされ、愛し、仕え、神に自分を捧げて生きること。その中に現される神の圧倒的な豊かさに生きること。
私はここに教会の本当の姿と使命を見ます。
あなたはどのように毎日を過ごしているでしょうか?

主よ。御身を裂いて与えてくださった命に感謝します。だから、この命をあなたにおささげします。どうか、この小さなささげものを受け入れ、ただこの命が私だけにとどまるのではなく、命の川の流れとなって多くの人を生かすものとしてくださいますよう。今日も願います。主がお喜びくださいますように。



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ご遠慮生活♪

机の上のパソコンがノートからデスクトップへ。
本体ごと机に載せるしかスペースがないので、とりあえずひとまとめ載っけているのですが。
前よりスペースを使うこと、使うこと。
これまで普通に置いていた物が置けなくなって、結局本人が恐縮して座っているようのなってしまっています。

どうもお邪魔してます。の今日この頃です。


ちなみに、デスクトップは暑い。温度も、ますます上昇中!

今日のかて ヘブル 12:26-28

「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」
この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。
こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。
新約聖書 ヘブル人への手紙 12:26-28

やがて、来ようとしている終わりの日。天と地が揺るがされる大患難と言われる時代に向って私たちは進んでいます。消え失せる、無価値なものだけれども、目には見えるものに頼りを置くことに何の疑問も持たない時代は、いずれ終焉に向います。目に見えるものの上にある平和・豊かさ、人の力や知恵の上に立てられた華やかさ・煌びやかさ、栄光と思われていたものがいかに脆く、微妙なバランスの上に存在していたのかということを否応無く知る時代が来ると言うことです。揺るがされることによって、揺ぎなきものが残される時代への転換期にいる私たちは、揺るがないものを持つために、備えて生きるというのが本来のあり方です。目に見える繁栄こそ
が神の栄光と、そればかりを積み重ね・広げ・計算し、目に見える数字を追い求めて来た者が、天地ごと揺るがされることによって、すべてが無意味なものであったと知る時には、それを求め続けて生きて来た人々は何と落胆することでしょうか。
あなたはイエスキリストを信じる信仰生活の歩みの中で、揺らぐことのない永遠の価値あるもの、他の何をもってしても、たとえ命をもってしても代えることのできない、永遠に変ることのない価値あるものを知っているでしょうか?本当にそれを握り締めて歩いているでしょうか?

《ヨハネの黙示録 21:1》
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

天地は揺るがされ、やがてその天地は滅び去ります。神による裁きのもと、悪魔も死もよみも永遠の火に投げ込まれ、天地は滅びるのです。それから新しい天と新しい地が来ます。私たちの約束はそこに完全に成就するのです。私たち自身が新しい天と地の新しい都エルサレムそのものであり、キリストの花嫁として、花婿キリストとの結婚の奥義がそこに完成します。それは神が最初の創造の時からの計画の完全なる成就、神と一つとせられる中にある麗しい神の統治(支配)があるのです(黙示録20-22章)。
その先がけとして、私たちはキリストを信じる信仰にあって、キリストの死と復活に、その十字架の上に一体とされることによってあずかり、古きは過ぎ去り、新しい創造の中にすでに入れられている(コリント 5:17,ガラテヤ6:14,15)のです。
新しく造られた私たちは神の子とされ(ガラテヤ 3:26)、天国に国籍(ピリピ3:20)を持つ者とされました。イエスキリストが地上におられた時、神の国はすでに来ている(マタイ12:28,ルカ11:20)と語られ、神の国は私たちのただ中にあり(ルカ17:21)と言われたように、私たちはこの神の国に突入している(ルカ16:16)のです。
私たちはやがて消えゆくこの地上に遣わされた者(ヨハネ17:18)であり寄留者(汽撻謄2:11)ですが、神の王国の王であるキリストの天においても地においてもいっさいの権威を与えられていると言われる権威(マタイ28:18)をキリストの御名において祈り行使することを許された(ヨハネ16:24-27,ヨハネ17:11)者です。何かを消えゆく地上に積み重ねるのではなく(競灰螢鵐4:18)、この地上に消えゆくものを大量に持ってむしろそれらに命を捕えられ(ルカ9:23-25)不自由に生きるためではなく(ガラテヤ5:1)、神の勝利を全地に現し、栄光を現すために生きているのです。
私たちの内に命として生きておられるキリストご自身の霊(聖霊)は、この御国を受け継ぐ証印(エペソ1:13)であり、私たちが神の子であるからこそ、アバ父よと呼ばわしめる御子の霊であり(ガラテヤ4:6)、この内に生きるキリストこそ永遠の宝(競灰螢鵐4:7)、奥義(コロサイ1:27)なのです。
何と素晴らしい救いを私たちは受けたのでしょうか。
このような者とされたのに相応しく、私たちは毎日を歩んでいるでしょうか。
このような人間の想像も理解も及ばない、素晴らしく揺るぎないものだけが残るため、天地は揺るがされるのです。
あなたは終わりの時代を希望を持って進んでいきますか。それとも失望とともに目をつぶって無視し続けますか。

主よ。どうか、私たちにあなたの深遠なる知恵を与えて、あなたの御計画を悟らせ、御旨のままに生きることを得させてください。ただあなたの栄光のために。


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今日のかて マタイ 14:22-33

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。
新約聖書 マタイの福音書 14:22-33

キリスト(救い主)が(この地上に)来られる前備えのため、人々の心を神に向け、悔い改めさせ、また来臨されたキリストを証しするために生まれたバプテスマのヨハネが殉教により、その役割を終えるという大変なことが起こりました。
神の国の福音宣教の一大転機に、イエスキリストはご自身の現し様をもっと明確にされました。
ご自身がどのような者であるのか、つまり、ご自身がすべての自然現象や物理法則などの上に(超越して)存在される方であるということ。そして、この方を信じる者は彼の恵みに預かって生きる者になるということを明示されたのです。まさしく救い主である方としての在り様を現そうとされました。
この箇所はそうした意味で重要な2つの大きな出来事の中の一つの部分です。(もうひとつはこの前の部分にある5000人の人々に食事を行き渡らせ、その飢えを満たした話。)
漁師を前職として、舟の扱いにはプロフェッショナルであった弟子たちでさえ、進みあぐねる程の嵐の中、恐れで心が満たされる最中に、主は弟子たちに特別な方法で近づかれました。なんと水の上を歩いて来られたです。愛する主でさえ幽霊に見えるほどに、恐れに満たされた弟子たちに、主は「恐れるな」と語りかけられました。
水は死を意味するもの、それが荒れ狂って私たちに迫ります。しかし自然現象・物理法則を超越して、主はその現実の只中に「恐れるな」と近づかれるのです。さらに驚くべきは、主を信じる者は、このペテロのように、自分も自然現象・物理法則を超越して、死の上を歩いて生きる者としての恵みに預からせてくださるのです。
重要なのは信仰を働かせること。キリストを信じるのか、それとも迫り来る風と波という現実に目を向けそれを信じるのか。死を超越して生きるための鍵がそこにあります。

《ヘブル人への手紙 11:1,6 (口語訳)》
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
・・・中略・・・
神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

私たちの能力は到底及ばず、目には自分の命すら危ぶまれるように見える現実の嵐に出会うときこそ、私たちの内に住まうキリストがお持ちになっている「信仰」を働かせる時です。舟の中で現実に立ち向かえずただ震え、迫り来る死の恐怖に飲み込まれるのではなく、むしろこの真理により、死を超越し、打ち伏せ、足の下に引いて、積極的にキリストを信じる者として生きることを願います。この真理により私たちはあらゆる環境に屈することなく、自由に生きることができるのです。
たとえ時代が、不安定になり、戦争のうわさや飢饉や疫病などの死の現実が世界中を巻き込み、あるいは私たちに迫って来たとしても、つまりは終末の時代が現実として私たちに迫り来たとしても、だからこそ死に飲み込まれることなく、私たちは力強く死を超越して生きる必要性があるのです。いや、今の終末の時代にはこのような信仰が必要と言えるのです。

主よ。私達の内に住まう、すでに世に勝たれ、天においても地においてもいっさいの権威が授けられたキリストによって私達を強め、この方の内に持たれる信仰を私達自身のものとしてください。世の終わりを生きる聖徒達のために。


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すでに9月ですが

昔からの癖なのですが、夏は創作意欲が湧きません。
すいません。
暑さの壁に囲まれて、五感が麻痺するようです。まあ、冷房が効いた部屋でかろうじでそのようなことも可能なのですが・・・。
暑さもある程度ラインを越えると、頭の奥からラテンのリズムが聞こえて来て、サンバ気分で夏を遊んでしまおうなんて思ったりするのです。が今年はそれもできないほど暑さ満載って感じです。
みなさんはこの夏をどうお過しですか?


・・・ってもう9月じゃない。それはまずいでしょ。暑すぎでしょ。


今日のかて マタイ 24:4-8

そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
新約聖書 マタイの福音書 24:4-8

8月という月は日本にとっては特別な月です。先日15日には終戦記念日を迎え、平和を考える大切な月となりました。今年で65回目の終戦記念日。日本はここまで平和に守られ、つまりは世界的にも同様の年月大きな大戦がなかったのだということがわかります。
しかし、長く平和が続くことがこれからも平和であるということには繋がりません。
むしろ、戦争の噂が日々聞こえるようになりました(日本のニュースメディアにはほとんど情報は流れていませんが)。恐慌という名の世界的な飢饉は現実のものとなっています。先の世界大戦の時もそうでしたが、恐慌と戦争の話は大いに関係が深いと言われ、その火種は私たちのわからないところで知らぬ間に始まっているかも知れません。これまでの歴史は隠された戦争への流れを教えてくれています。私たちは平和を作る者として、真剣に祈るべき時が実は迫って来ていると言えるのです。
さらに、続く世界各地での天候異変と大きな地震、山火事、油田爆発事故、洪水。この一年、いや数ヶ月でも世界は大きく揺れ動いています。
眠り続けることが平和とは決して言えません。
そして、これらのことから終わりの日が近いことを私たちは自覚する必要性があるのです。
だからと言って、聖書はいたずらに恐れることを望んで語っていません。むしろ、このときこそ私たちは信仰の堅い岩の上に立ち、どのように生きるべきかを真剣に見つめ返す必要があります。
終わりの日とは、これまでの古い創造が終わりを迎え、新しい創造による新しい天と地に変わる時を意味します。私たちは段階を経て、古い創造からこの新しい創造に突入して行きます。だからこそ、今ある時代のように世界中が揺れ動き、天地は振るわれ、やがて審判の日を経て新しい創造に入るのです。
しかし、驚くべきことに私たちは、すでにイエスキリストの十字架の御業により、この新しい創造が私たちのうちに始められているのです。

《ガラテヤ人への手紙 6:14,15》
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
…中略…大事なのは新しい創造です。

ですから、新しく造られた私たちは、目に映り、耳に聞こえ、心に移ろい行くに過ぎない、やがて滅び行くものに心を留めることなく、信仰によって、見るべき目に見えないものを見つめながら、主の勝利と栄光を確信し、永遠に変ることのない方がやがて王として、裁き主として再び来られる方を、また万物が一新される素晴らしき日を、待ち望むのです。

《ペテロの手紙 3:9-14》
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。

どうか、終わりの日が近き今、ただいたずらに恐れるのではなく、主が私たちの心に触れて、真理を悟らせ、再臨への信仰を与え、生きるべき道のりに導いてくださいますように。私たちはこのように終わりの日に向って、あなたと共に地を治める者、平和を作る者として立てられていますから、あなたの御旨にあって、祈る者として下さい。主のやがて来る重い栄光の日々を心から喜び待ち望みつつ。


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今日のかて ヨハネ 9:1-3

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
新約聖書 ヨハネ 9:1-3

絶望と希望は紙一重です。
人が困難と向き合う時、その現実をどのように捉えるかその視点がとても重要になります。否定的な言葉で悲観的に物事を考える。慎重に物事と向き合うのは良いのですが、目の前に迫る事実から目を離せないで、絶望することとは別です。
この絶望は人の心を捉え、心を死んだように苦しませ、生きる道が狭められたあるいは失われたかのようにさえ思わせ、神に不信を抱かせたり、時にはのろうことさえさせることもあります。しかし、これは大きな偽りです。
すべての困難が私たちを死と滅びの苦しみに近づけ導くもののように見せられているならば、つまりそのような視点に立つのであれば、その死の力の前に私たちは本来神から得るべき祝福を奪われ、敗北をするでしょう。
その敗北を理由をつけて、心に言い聞かせ、無理に受け入れようとする人さえいます。この偽りは巧妙で、時に聖書まで引用して不信を肯定化し、人に伝染させ、キリスト教会でさえまことしやかな偽りが蔓延し、ある種の絶望と神への不信に飲み込まれている教会を見かけることさえあります。
しかし、イエスキリストは明確に困難と神の栄光との関係を今日の御言葉で語っています。「神のわざがこの人に現われるため」。この視点に私たちは希望を見出すことができるのです。
不足、欠乏、渇き、貧しさ、乏しさ…、私たちを取り巻く困難に出くわした時こそ、これは神のわざの現されるための場所、この困難が神の栄光に満たされるための一つの空の器に過ぎないことを知ってください。神はご自身の豊かさで、このような私たちの欠け(空の器)を満たしたいと願っておられるのです。でなければ、神はご自身の比類なき尊き御子を私たちに与えてくださるはずがないではないですか。「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32)」とある通りです。
神は私たちを造られた時から、私たちが塵にすぎない取るに足りない小さな存在であることを知り、神によって満たされなければ、生きることすらできない存在であることを充分に知っておられます。いや、むしろ創造主なる神だからこそ、私たちをご自身で満たしたいと切望され、そこに想像を超えた圧倒的な神ご自身の栄光を現し、私たちがそれを喜び、また神を喜び、神を讃え、私たちの唇から栄光をお受けになることを望んでおられるという事実を私たちはしっかりと知らなければなりません。
神ご自身が私たちの希望なのです。この希望は決して失望に終わるものではない、永遠に残るものです。人の力ではどうにもできない現実に出くわしたとき、それがいかなる環境、状況にあったとしても、この希望こそが私たちを生かすものとなるでしょう。
時は終わりの日を予見させる、終わりの時代です。私たちを永遠に生かす本当の希望を持って日々を歩んで行こうはありませんか。
この希望に立って一緒に祈っていきましょう。

主よ。私たちを見える者としてください。目に見えるものを見るのではなく、見えないものを見、本当の希望を見る、見える者としてください。時はこれまでの平穏とは異なる様相を呈して来ています。この希望だけが、真実を見通し、時のしるしを見遠し、私たちの生きるべき道を見通させるでしょう。あなたのみこころを見させてください。偽りの視点をこの希望により退ける者としてください。どうか私たちをこの希望をもって、私たちのすべての歩みをあなたの栄光を現す器として差し出す者、ささげる者としてください。あなたの栄光が私たちに輝き溢れ、私たちの讃美をもって、あなたが私たちの唇から栄光をお受けになりますように。
すべてを善きに導いてくださる主にすべてをゆだねます。


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夕立ち

『夕立ち』

たとえば夏のどうしようもない暑さの中で
突然スコールのような夕立が
汗と埃臭さとともにすべてを洗い流し
なす術をなくした私たちを生き返らせるように
圧倒的な神の愛は私たちに降り注ぎ
どうしようもなくなってしまった私たちの人生を
洗いざらしの亜麻布のように真っ白に
真新しいものへと生まれ変わらせてくれる
それは日々に及んで新しい

ああ だから約束の虹が
ほら 空にかかってる


《コリント人への手紙? 5:17》
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。


終わりなき戦争

「終わりなき戦争」

許されるはずのない悪と善の調和
あるはずのない存在の虚像
偽りの善が隊列する足音と共に
世界を破壊の振動に巻き込んで行く

残されたものは血と涙
逃れることのできない死が
そこに真実がないことを物語る
人の善の耐えられない軽さに
神は何を思うのか


《詩篇 53 篇》
愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。
神は天から人の子を見おろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。
彼らは皆そむき、みなひとしく堕落した。善を行う者はない、ひとりもない。
悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物食うようにわが民を食らい、また神を呼ぶことをしない。
彼らは恐るべきことのない時に大いに恐れた。神はよこしまな者の骨を散らされるからである。神が彼らを捨てられるので、彼らは恥をこうむるであろう。
どうか、シオンからイスラエルの救が出るように。神がその民の繁栄を回復される時、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう。

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Taka♪

新橋駅前広場にて、人生の真実を叫び続ける伝道者、ストリートメッセンジャーのTaka♪です。
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