『一発逆転』通信

あなたの生活に豊かな彩を・・・ Jesus, You're the Center of my joy.

ひとり縁日

駅前にいつも出ているお好み焼きとたこ焼きの屋台。
たまにどうしても食べたくなるときがある。
特に、ここのところ気温が急に下がってきて、ちょうど誘われる感じ。
で、買ってみた!

クリスチャンはお祭りには信仰上あまり行かないので、縁日にはかなり縁遠い。
なので、こういう機会に、妙にテンションが上がってしまう。
せっかくなので、このテンションに応えるべく、ガードレールに腰掛けながら、外で食べた。

うん!いい感じ♪

台風が来た

今台風が来てます。
建物の中にいるけど、ゴー言ってますよ。
凄い風なんでしょうね。
さっき帰って来たけど、建物に入る直前にゴーっと凄い勢いで風が吹いてきて、ビビりました。
ていうか、それまで、実は雨が止まっていて、傘差さずに帰れたのは、まさに奇跡。主が雨を止めていて下さったというのが、何とも感謝。
で、最後に突然の風。ここまで守って下さったんですね。主よー!という感じです。

皆さんもお気をつけください。というか主にあって守られますように。

アベンジャー○集合

c4f6d617.jpgやっぱりこの手にはつい弱くて、見に行ってしまいました。
何せ、ウルトラマンから仮面ライダーから、戦隊モノまで、ヒーローが集結するものは一応見るよねぇ。
一種の祭りです。これは。
過ぎていった夏の夏祭りさ!

それにしても世界的にはヒーロー大集合なんて、珍しくてすごい観客動員数らしいけど、日本では見慣れていて、ほのぼのとした気分にさえなりますね。
日本て凄い国なのかも。

東映まんが祭りグレイト!

女性ジャーナリスト、シリアに散る

また、日本のジャーナリストが亡くなりました。
戦争に声なき叫びを上げる、女性や子供の声を現地から直接伝えようと誠実に取材を続けて来られた方。
女性ビデオジャーナリストの草分け的存在だったそうです。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120821-OYT1T00232.htm

胸が痛みます。
人の命が軽んじられて見られる社会性は、戦争という問題を抱える国々では想像以上です。
それは人の命を命と思わない構造。
人の尊厳は存在しません。
人の命の大切さを伝えること。人の大切な思いが声が踏みにじられることのない社会。
戦場を駆けていたはずの自分の姿が重なり、すみませんという気持ちになるのが正直なところです。
一人の命も失って欲しくない、伝道者としての気持ちは変わりません。
平和なこの社会でもっと伝えられたら、踏みにじられるはずの命が留められたら。
そうして走り始めたこの道、まだ充分に走れていないのを自問しています。

主にある平和を心から祈ります。
大切な方を亡くされた、ご家族、友人、関係のある全ての方々に、この悲しみが平和への益となり、また主の慰めが皆さんに豊かにありますように。

「青空に思わず」

5cad5b37.jpgきれいな青空に胸がすく
少し歩いてみる
照りつける太陽
むせかえるような熱い空気
生きていることを満喫する
夏の暑さにこれでもかと
生きている実感が迫り来る

歩きだそう 生きてるから
まとわりつく汗を気にせず
あー暑いって歯を出して笑おう
宿題を忘れて遊んだ
あの日のように

パンダ高まる

a85fc61d.jpgなんか突然ですが、パンダです。
生パンダ見ました。
パンダ萌えます♪
一緒に笹食べたくなります。
タイヤでコロコロとかしたくなります。

おおおぉぉぉ、パンダ高まる!!

女子競歩

今女子競歩を観戦中。
競歩ってかなり特殊な歩き方ですね。
凄いとしか言いようがない難易度。

ちなみに水泳で自由形という競技がありますが、スピードの出る歩き方なら何でもOKなのでしょうか?
だとすれば、聖書には水の上を歩いたペテロという人がいますが、この競歩的な歩きと合わせれば、最速の自由形ということになるのでしょうか?

ということで、信仰によって、あなたもチャレンジしてみます。新しい自由形にゥァ�

女子バレー銅メダルでした

ちょっとお出かけして、油断した隙に、女子バレーが銅メダルを取ってしまいました。
驚きですね。
女性は凄いですね。
プレッシャーに負けずに銅メダルですよ。
勝てる試合を落としていないような気がしますね。
僕も男性の端くれにいますが、プレッシャーには強い方ではありませんね。
神がいなかったら、とっくにへなちょこな生活になりますよ。

ということで、凄いのは神ということでゥァ�
今日もおあとがよろしいようで♪
まだまだオリンピック観戦は続きます。
夜更かしもほどほどにゥァ�

「深呼吸して」

背すじをちょっとだけピーンと
空にちょっとだけ近づく
肺に新鮮な空気が流れ込む
俯いても何も変わらないから
背すじをちょっとだけピーンと
ため息の代わりに深呼吸

それでもう一度まっすぐ歩ける
それだけでもう一度歩ける
明日から一歩一歩進もう

目と目があったその時に

今日は仕事の息抜きに、有楽町の東京国際フォーラムで開催された、日本テディーベアコンベンションに行ってきました。
可愛さをアピールするクマ・クマ・クマ・・・。
まさしくクマまみれでした。
おそいくる愛くるしい眼差しの数々。
その誘惑には乗らないと、帰ろうとしていたのですが、出口付近で・・・つい。
目と目があったその時から、物語が始まる。
出会いとはそんなものです。

そして、今そのつぶらな瞳は、うちで輝いてます。

かなりらぶりーです。

癒されます。

これで癒されるのもどうかと思いますが・・・。

ちなみに教理的な問題があるのでハッキリさせて起きますが、癒し主はイエスキリストです。癒しは主に在りです。


で、つぶらな瞳がたまらないです。

めでたいこと

よくコンビニとかスーパーに行くと、赤飯のおにぎりとか売っていて、僕はそれを見ると何かうれしい気分になる。
子供の頃、よくおめでたいことがあると「御赤飯炊くのよ」と、親から言われ、お祝い事の度に確かに御赤飯はあった。
確かに日本に息づく伝統の味。

ということは、毎日多くの赤飯を買う人がコンビニやスーパーにたくさんいるということで、それだけおめでたい人が毎日いるというわけだ!

う〜む、それを考えただけ笑いがこぼれるね。

そういえば、僕も昔から「おめでたい奴」と言われ続けてきた。
めでたいことはいいことだ。

今日のかて ヨハネ 4:39-42

さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
新約聖書 ヨハネの福音書 4:39-42

一人の女性がイエスキリストに出会いました。
彼女は命に飢え渇きながらも、自らの問題に、そして罪に捕らえられ、人目を忍び生きてきました。
自分にはどうにもできないことを抱えたまま、だからこそ、その命が枯れ果て、心の奥底で命を求めていました。
このサマリアの女に声をかけた主イエスこそ、彼女が求めていた命の泉たる救い主でした。
彼女はほんの数言しかイエスと会話していませんが、彼女の命の問題、罪の問題、神との交わり(礼拝)の回復。言葉ではなく、知性でもなく、その霊の深くにまで至る全てが満たされ、イエスこそ我が救い主キリストと告白するに至ったのです。
その告白がサマリアの人々の心を動かしたのです。彼女にとっては人目を忍ぶ、恥ずべき罪深き日常生活を、そこから解放され命を得たからこそ、恥じる事なく告白した、その罪からの解放の知らせこそ、サマリアの人々への真実の告白、最初の福音となったのです。
そして、その言葉でサマリアの人々は、イエスを信じた。
しかし、ここからが重要な部分です。
どれほど強烈にイエスと出会ったという人がいても、その人の信仰の告白はその人のものです。残念ながら、その人の言葉をいくら聞いても、信仰へのきっかけにはなっても、自分の信仰にはなりません。自分が直接主イエスと交わり、直接主イエスから御言葉を聞かなければ、何の意味もなしません。
それは人からの借り物の信仰であり、借り物では命を受け取ることはできないのです。
これは信仰者としての歩みのどの段階においても言えることです。
どれほど素晴らしい信仰者と交わっても、どれほど素晴らしいメッセンジャーのメッセージを聞いても、どれほど多くの素晴らしい信仰書を読んでも、どれほど信仰深い信仰者に祈ってもらっても、それは自分が主と交わらなければ、何の意味もないものなのです。
なぜなら、主の言葉にこそ命があり、主との交わりにこそ命が流れる、直接的な主との関係のみが私たちを永遠の命に生かすのです。
その意味でサマリアの人々が強いて主にその地に滞在してくださるように、つまり自ら直接主と交わることを願って、主から直接御言葉を聞いたことは非常に重要な意味があったのです。だからこそ、彼等は信仰を自らのものとすることができた、その告白こそが、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」という言葉になっているのです。
これこそが彼等が受け取った、地上の何よりも価値を持つ、永遠の命なのです。
信仰は自らのものとなって始めて、命となって力を持ち、隠すことができないほどに溢れて、命の川々となって流れ、多くの人々を命に満たし生かすものとなるのです。そしてさらに命はこのプロセスを繰り返して拡大し続け、だからこそ、時代を超えて、地域を超えて、世界中にイエスを救い主と信じる者達が生きているのです。
この主イエスがあなたに与えている永遠の命には、本当に力を持って溢れた時、世界中を命に覆うほどの絶大な力があるのです。
あなたはそれを本当に受け取っているでしょうか?
あなたは信仰を自分のものとしていますか?誰かからの借り物ではないでしょうか?
あなたは直接主と交わっていますか?直接主から御言葉を聞いていますか?
あなたは永遠の命を自らのものとしていますか?
今、主に祈り、主と直接交わる時を共に持ちましょう。


愛する主よ。今あなたの声を聞かせてください。あなたがどれほど、私達を愛し、またご自身の愛溢るる思いを明かされようと願っておられるのかを。そしてあなたを信じる者の内に与えられているあなたの命が、いかに絶大な力を持ち、また私達の内から溢れ出て、死に満ちるこの世を命に満たそうと願っておられるのかを。これほど絶大な永遠の宝が私の内に閉じ込められている、畏れ多さを覚えます。この永遠の命はあなたのものです。どうか御心のままに溢れ出てくださいますように。


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今日のかて 創世記 26:12-25

イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
彼はそこからベエル・シェバに上った。
主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。
旧約聖書 創世記 26:22-25
(全文長いため略しました。創世記 26:12-25全体は聖書からご参照ください。)

イサクは穴を掘り続けました。
彼は、主が彼を祝福されるのを、周りの者に嫉まれて、自らの住む地を追われました。
父から受け継いだ土地、そしてそこにあった井戸を塞がれ、出て行ってくれと言われたのです。
迫害されても、人々から奪われても、彼は淡々と井戸を掘り続けました。
何度人々から退けられても決して逆らわず、争わずにただ淡々と、幾度も埋められてしまっていた父の井戸を再び掘っては奪われ、埋められ、その地を追われ、それでも井戸を掘り続け、やがては新たに井戸を掘り、ただひたすらにそれを繰り返して掘り続けたのです。自らの住む場所を得るために。(12-21節)
イスラエルの地においては水のないことは死活問題ですから、井戸を奪われることは私達が思うよりも深刻な問題なのに、彼は争い奪い取り返すことより、井戸を掘り続けました。
まるで何か見えない使命があるかのように。
しかし、その井戸を掘り続けたことは、意図を越えて気がつけば、新しい地を広げ得たということとなったのです。
父から受け継いだ地を、さらに広げ得たということが、いかに主の目には大きなことであったのでしょうか。
だからこそ、イサクは父から受け継いだ信仰と、その祝福を今やイサク自身のものとして、受け取ったのです。
主はこの時直接イサクに現れ、語られたのです。そしてイサクはこの時初めて自らの手で祭壇を建て主に礼拝をささげました。(22-25節)
彼はこのようにして、信仰を勝ち得、また主からの約束を勝ち得たのです。
一見するとこれは消極的な戦いに見えるかも知れません。確かに聖書にあるイスラエルの歩みの中には、新しい地を信仰により戦争をし、戦い取る姿が随所に描かれいます。そこからするなら、これは戦いを避けたゆえに、結果広げ得た地に見えるでしょうか。
いえいえ、このイサクの戦いは目に見える戦いではなく、まさに目に見えない霊的な(信仰の)戦いだったのです。
なぜなら、井戸こそ、命の泉。イエスキリストはご自身をそのような者として私達に語られているのですから。

《ヨハネの福音書 4:14》
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

その命の泉を掘り続けたイサクの姿は、まだ見ぬイエスキリストを信仰の目により、はるか未来に現れる救い主を仰ぎ見て、探し続ける姿ということができます。そして彼はそのことにより新しい地を得たのであり、神に直接お会いすることができたのです。その時神から語られた言葉は井戸を掘り続ける前の約束の言葉(創世記26:2-5)と変わりなく聞こえますが、彼には自らへの確かな約束として受け取れたでしょう。なぜならその信仰を自分のものとして確かに受け取ったからこそ、自ら祭壇を建て主に礼拝をささげる礼拝者となったのですから。
やがてさらに、ここで得た約束が元となり、後にイスラエルの民は新しい地を実際に戦い取ることとなるのです。つまり、イサクはイスラエル全体の勝利をここで一人静かに勝ち取ったとさえ言えるのです。
神の祝福と約束の中を歩む信仰者の歩みは、全く何もない平坦な道とは限りません。誰でも信仰における戦いはあるでしょう。
そしてその戦い方は一通りではありません。
主は何をあなたに勝ち得てほしいと願い、何をすることを望んでおられるのでしょうか。
それはあなたが問題や壁に行き当たる時、あなた自身が神に聞くしかありません。
しかし、一つだけ言えることは全てのことに神のご計画があり、あなたにとって必ず意味がある。主のみおもいが全てにあるということです。

《詩篇 139:16,17》
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

そこを歩むとき私達は見えない道程を、主に確かに導かれて、見えているかのように歩むことができるのです。主の導きの御手はどこへ向かって伸べられているでしょうか。共に祈りましょう。


愛する主よ。私達の日々の歩みは確かに目には見えず、不確かに見えるかも知れません。ましてや目の前に壁や問題が立ちはだかるならそれは尚更です。しかし、私達が見るのはその目の前にある現実ではなく、主よ、あなたの御心です。あなたの溢れる私に向けられている御心をどうかお語りください。何を望まれ、何を与え、どこに導こうとされているのでしょうか。見えないからこそ不安に怯えるのではなく。どうかあなたを信じ、真っ直ぐにあなただけを見て、ただ一筋に歩むための信仰を私達にお与えください。ただあなが私を愛してくださるがゆえに、ただあなたを愛するがゆえに。

今日のかて マタイ 26:29

ただ、言っておきます。 わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
新約聖書 マタイ 26:29

これは最後の晩餐の席で、主イエスが語られた一言です。ご自身の血で立てられる新しい契約の杯として、ぶどうの杯を弟子達に分かたれた時のものです。そして、ここには主の深い思いが込められています。
ぶどうの実で造った物をもう飲むことはないと言われたのは、旧約聖書にあるナジル人の誓願の規定に重なるものです。

《民数記 6:2-4》
「イスラエル人に告げて言え。男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、
ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。
彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。

ナジル人の誓願とは、特別に自分を神のものとしてささげ、聖別する誓願です。ここで主はご自身をそのように父なる神にささげました。この後文字通り十字架の上に、ご自身を、唯一父なる神を満足させる、完全なるささげ物としてささげられました。
ご自身を聖別し、同時にこの血で立てられる杯により私達を聖別するために。

《ヨハネ 17:17-19》
真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

主は私達をどれほどの思いでこの地上に残し(遣わし)、天に帰られたことでしょう。そして、ご自身と共に私達を聖なるものとすることがどれほどの悲願であったでしょう。

《レビ記 19:2》
イスラエル人の全会衆 に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

主が「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日まで」と言われているのは、黙示録の最後に書かれている婚宴の時であり、この婚宴は花婿イエスキリストと花嫁である私達教会との結婚の時を指します。
その時まで、私達をご自身にふさわしいように、ご自身が聖であるように、聖としようとされたのです。
その日まで主はナジル人の誓願を続けられるというのです。
私達花嫁を迎えるため、ふさわしい花嫁とするため、主はご自身のすべてをささげ尽くして私達に備えを与え、ご自身と同じ姿にまで変えてくださろうと私達を引き上げてくださろうというのです。

《2コリント 3:16,17,18》
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる 主の働きによるのです。

神の子イエスキリストと同じかたちにです。何と恐れ多いことでしょう。罪人でしかなかった私達を栄光から栄光へと鏡のように主の栄光を反映させながら、そのような姿に変えるというのです。主は私達をどれほど愛しておられるというのでしょう。
そのための誓願を主は、花嫁として私達を迎えるその日まで続けられるというのです。どれほどの思いがそこに込められているのでしょうか。
私達が聖餐を重ね、この杯を重ねる度に、主の聖なるものとして、栄光の似姿に変えられて行くことを心から望んで止みません。
主のこの深い思いを、あなたはどれほど受け止めていますか?


主よ。あなたには私がどのようなものとして映っているのでしょうか?この塵に過ぎない者をどれほど愛しているというのでしょうか?なぜそれほど私を愛してくださるのでしょうか?それをあなたに直接うかがえるその日まで、天でお会いできるその日まで、あなたの愛のままに、私をあなたにふさわしく変えてくださいますように。ただあなたの御前に私を置いてください。あなたの栄光を日々映すために。ただあなたを愛するために。

映画は3D

最近映画といえば3Dばかり。
さすがに昔の大ヒット作『タイタニック』までも、3Dに直して再上映には驚いた。
映画製作費の中で技術開発費をとっていると言って最新技術に特に力を入れているジェームズ・キャメロン監督ですから、どんな出来上がりになっていることでしょう。
で、3Dって
ダイオンキョウ ダイハクリョク デッカイスクリーン
で3D?

ドキドキするね♪
あっ!4Dになってる!

映し絵

0680884f.jpg水面(みなも)に映る桜
舞い散る花びら
どちらが鏡か 映し絵か
こぼれるため息
一風 水面を撫で
広がる波紋に
虚像は消え
浮かび上がる
真の桜の美しさ

この世は鏡か 映し絵か


《新約聖書 2コリント 4:18》
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

シェアハウスへようこそ!

シェアハウスの流行はただのブームとは言い切れないでしょう。安い家賃で希望以上の所に住めるという意味合いから、生活に密着したコミュニケーションの場を持つライフスタイルに変わりつつあるようです。
これはかつて日本が独自文化として保っていた長屋生活の現代版。
日本の島国という特殊な風土が培った国民性、高度なコミュニケーション能力をベースにした、自然なライフスタイルのようにも感じます。
まさに温故知新。もしも、ここから新たな文化が生まれるような発展が生まれるところにまで至るなら、もしかするとこの国を再建する大きな力になるかも知れません。
あとは長屋に必要なのは、悪代官と遊び人の金さんでしょう。
世直しの日も近いことでしょう。

今日のかて ルカ 5:3-6

イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
新約聖書 ルカの福音書 5:3-6

私達の力が尽きた時、人の思いが尽き果てた時、神の御業が現れます。
それは人の力に一切よらず神のみによってなされた御業であり、神の絶大な力、深いみこころを、私達はそこで初めて知ることができるのです。
主のあわれみは尽きることはありません。
そして私達の唇は、神を賛美することを止められないでしょう。
それこそが神の栄光であり、この栄光を受けるにふさわしい方は神のみなのです。
神は私達が力を尽くさなければ何も出来ないような方ではありません。むしろ、誰の力にもよらず、ただご自身が全てを満たし、全てを動かし、全てを完成されるのです。
この絶大なる神の存在の前に全ての被造物はひれ伏すのです。
だからこそ、それを現すために私達の力が思いが残るうちにはご自身の全容を現されることがないのです。
これは絶望ではありません。神にある真の希望なのです。
しかしここで、その御業を見る前に、主は一つのことを求めています。
まず主の御言葉に伏し、従うこと。
確かにこの状況においてはぺテロはプロの漁師であり、そのような人が一晩中漁をして何も取れなかったのであるから、全く漁の素人であるイエス様の言葉は現実に反対している言葉に聞こえるでしょう。ここでもしぺテロが自分の主張だけを押し通し、神の御言葉を退けていたら彼は一生救い主であるイエス様に出会うことはなかったかも知れません。
でも、彼は神の言葉に従った。
「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
あらゆる状況において、自らが現実の中で無力さを感じるほどに万策が尽き、失望に膝を抱え込もうとする時、私達は主の御言葉を聞くべきです。そして御言葉にひれ伏し、従うところから、歩みを始めるべきです。
主はあなたのすぐそばに立たれ、あわれみを湛えて、恵みを注ごうと待っておられるからです。
やさしく語りかける主の導きに全てをゆだねて生きることができる人は幸いです。
言葉に尽くすことのできない、大いなる主の栄光をそこに見ることができるのですから。


主よ。私はあなたがいるから、どのような時にも心強いのです。たとえ全てが尽きたように見える時でも、この時こそあなたの栄光が真に現される時だと告白できるのです。今こそ、あなたの本当のみこころの深さを知ることができると、あなたのみに希望をよせることができるのです。主よ。小さな私に絶大なるあなたを現してください。私が真にあなたを知り、またここに現された栄光に触れた全ての人々もあなたを知って、あなたへの賛美が溢れるために。

メンテ中につきって・・・大変です

また立て続けにうちのサイトで使用してきたサービスが終了するという知らせを受けちゃいました。
これが来ると強制的にメンテしないといけないわけで、以外とこれが大変です。

ってしばらくサイトが動いていないと心配下さっているみなさんに、とりあえずご報告まで・・・。
今後ともよろしくお願いしますね♪

つぶらな瞳

今日帰り道に、意外な店を発見。今まで気づかなかったのに・・・。
テディベアのお店。

つぶらな瞳でこっちをずっと見てる・・・。
クマがスマイルしちゃってる。
かわいい・・・。

しかしこっちはスーツでバッチリ決めているのに、この状態で吸い寄せられるように店に入ってしまっては非常に怪しい。
でもクマ・・・こっちをずっと見てる。

う〜む。しばし硬直。
やはりこれはいけない。業者の人を装ってもこんなラブリーなものなのでこの姿ではあまりに無理があるではないか。
断腸の思いでクマ達にさよならを告げた。

おとこには悲しい別れがある。

せつなさを背中に隠し、駅への道へと足を早めた・・・。
プロフィール
Taka♪

新橋駅前広場にて、人生の真実を叫び続ける伝道者、ストリートメッセンジャーのTaka♪です。
Taka♪Profile

ホームページ
『一発逆転』人生塾
http://119.go2.jp

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