『一発逆転』通信

あなたの生活に豊かな彩を・・・ Jesus, You're the Center of my joy.

今日のかて 「心を神と一つに」

【列王記上11:26ー28,37,38】
※この箇所に付随して今日は列王記上11-14章を参照して見てください。

主はヤラベアムをダビデと同様に王として選びました。
神からの彼の選びはダビデと同様に、寡婦の子というイスラエルの中の最も小さい一人であり、忘れ去られるような存在の一人でした。決して歴史の表舞台に出るような人ではなかったかも知れません。
そして、ダビデと同様に忠実に王に仕えるものとなりました。
やがて、ダビデがサウルに命を狙われたように、ソロモンに殺されそうになり、イスラエルがエジプトで長らえたようにエジプトに逃げて、やがてその試練を越えて、ソロモンから国を裂き渡され北イスラエルの王となるため、ソロモンの死後、イスラエルに帰ります。
彼の何が神を喜ばせたのかは私達にはわかりませんが、しかし確かにダビデの歩みと重なるように歩んだ、主に愛され選ばれた王であるという事が、その人生の歩みと神から約束された召しから伺い知ることができます。
問題はここからです。
神はなぜソロモン(正確にはソロモンの子レハベアムからですが)からヤラベアムにイスラエルの国を裂き渡されたのか。
それはソロモンの心が神から離れ、神に背くようになったからです。そしてその現れとして、彼は異邦の神々の祭壇を国に築きました。
彼は多くの異邦人の女達を愛し、彼女達が崇めた異邦の神々の祭壇をエルサレムに建てるに至ったのです。
もちろん神からソロモンは二度も警告を受けましたが、彼はそれを退け、彼の心は神を退け離れていったことがわかります。
つまりは、ソロモンの心が神のものではなくなったから、神はイスラエルの国をヤラベアムに裂き渡したのです。
残ったユダの国は、ダビデとの約束の故にダビデの子孫であるソロモンの子達に残したものに過ぎませんでした。
それをヤラベアムは目の当たりにし、それを理由としてヤラベアムにイスラエルの国を裂き渡すと約束されているのですから、ヤラベアムは如何に神に対して生きるべきか知っていたはずなのです。
しかし、結果はヤラベアム自身が自ら別の祭壇を建て、神に逆らう者となりました。
このことによって、ヤラベアムの子孫はこの地から消え失せることとなりました。
ここでわかることは神の約束は神が語られた通り必ずなります。確かにヤラベアムは北イスラエル王国の初代王となりました。
しかし、彼は神の言葉の全てには忠実ではありませんでした。
もしも彼の心が主だけのものであったなら、彼の目が主だけに注がれていたなら、彼は生涯に渡って神の言葉の全てに忠実に生きることができたでしょう。
でも、彼が王になった時、一度神の約束が成就した時、人の本心はここに現れます。ここに人の高慢と、その高慢の故に神に逆らい立つ心が現れる。
彼の心は王であることを如何に維持するかという所にあり、人々の関心を自らの方に向けようと、自らの得た王の力で、異なる祭壇を、異なる神を自ら造り出したのです。
このつまづきは北イスラエル王国が滅びるに至るまで続く重いものとなりましたし、またユダが滅び行く原因に先立ち、イスラエルが神から背を向ける姿をもってユダをも神から引き離す影響を与えた原因ともなりました。
だから、ヤラベアムの子孫は全て滅び、消滅させられたのです。
私達が神を愛し、神を喜ばせる時、神は私達を愛するがゆえ、私達を選び、神の約束と共に、神の召しを与えられます。
それは神の約束を成就するための大切な働きの召しです。
しかし、それが成就した時、自らに現された神の栄光や、与えられた地位、名誉を自らのものにせんと、心奪われるなら、そのことが神への心を失わせるのです。
神が自分をどれほど愛してくださったのか。
全てが愛すればこそ注がれた一方的な恵み故に神が成された御業であり、自らのものでは何もないこと。
そしてこれほど愛されたからこそ、神のみに心を向け、神だけのものとして神を愛し続けること。
それこそが神の約束を永遠に成就する鍵となります。
ただ単一に一つ心で(全き心で)神を愛し、その心が、その目が、永遠に神から離れないこと。その心が神の心と一つであり続けること。
それに勝って神の御業が成されることも、約束が成就することも、栄光が現されることもありません。

【歴代誌16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

ダビデはただそのように神を愛し続けたのです【列王記上9:4,5】。永遠に。そしてそのことが子孫に及ぶまでの祝福の約束となったのです。

あなたが神様から語りかけられた大切な約束の言葉は何ですか?
もう一度神の愛の原点を思い出し、自分の姿を見てみてください。
全てはそこから始まり、そこから永遠の歩みに至るのですから。


※今日の聖書箇所です。ご参照ください。

【列王記11:26ー28,37,38】
11:26 ゼレダのエフライムびとネバテの子ヤラベアムはソロモンの家来であったが、その母の名はゼルヤといって寡婦であった。彼もまたその手をあげて王に敵した。
11:27 彼が手をあげて、王に敵した事情はこうである。ソロモンはミロを築き、父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。
11:28 ヤラベアムは非常に手腕のある人であったが、ソロモンはこの若者がよく働くのを見て、彼にヨセフの家のすべての強制労働の監督をさせた。
 [中略]
11:37 わたしがあなたを選び、あなたはすべて心の望むところを治めて、イスラエルの上に王となるであろう。
11:38 もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。

【列王記上9:4,5】
9:4 あなたがもし、あなたの父ダビデが歩んだように全き心をもって正しくわたしの前に歩み、すべてわたしが命じたようにおこなって、わたしの定めと、おきてとを守るならば、
9:5 わたしは、あなたの父ダビデに約束して『イスラエルの王位にのぼる人があなたに欠けることはないであろう』と言ったように、あなたのイスラエルに王たる位をながく確保するであろう。

今日のかて 「主の愛に心奪われる」

【士師記14:18】
今日主が私達に語られているのはこの箇所ですが、まずはこの箇所の全体像を理解するため、できれば士師記14章全体に目を通してみてください。
ここにはいくつかのことが謎に包まれ語られていますが、この箇所こそもっとも意味有り気に見えて、謎の深い箇所と言えるでしょう。
彼が異邦人達に問うた謎は、実はこの花嫁によらなければ決して解くことができない神の奥義ということができるでしょう。
まずここが花婿、花嫁の宴ということから、結婚の奥義【エペソ5:31,32】がここに隠されているということがわかります。さらにはこの決してナジル人である者が結婚相手として選ぶことのない異邦人の娘を花嫁にすることが神の御旨にあったことを見るのであれば、まさに今の異邦人に与えられた恵みとしての今の教会とイエスキリストの結婚を意味に含んでいると見ることができるでしょう。(主イエス自身最後の晩餐で語られた言葉にナジル人としての誓願を含む言葉を語られています。【ルカ22:18】)
であるならば、この獅子とその中から蜜が出てくる奥義はどのようなものということができるでしょうか。
「獅子」として出てくる聖書のこれに関わるものとして見ることができるのは、ユダの獅子たる主イエスキリスト、そして聖書に於いて「蜜」は御言葉に喩えられる言葉です。
私達の罪のため十字架の上に裂かれた主イエス、神の言葉(ロゴス)であられる主イエスご自身から神の御言葉が、深遠なる神の御旨が奥義としてその内に隠されているように溢れ出す。
その御旨こそ、キリストと教会が結婚するという聖書の結論たる奥義【黙示録21,22章】。この私達花嫁を買い取るために、主イエスご自身が裂かれ、ご自身の命でその花嫁料を支払われた。それがサムソンの出した問いに見ることのできる神の思いではないでしょうか。
そうした意味で見返すのであれば、この質問が異邦人達に、この宴の場所で問われたということにも頷ける深い意味を知ることができます。
まず異邦人に語られた福音。そしてそれは決して人の知恵、力では解き明かすことのできない、辿り着くことのできない、神から私達への答え、救いという最大の愛。
この最も深く、幸いな事実は、愛により始めて花嫁に明かされる深遠なる事実です。
しかしこの花嫁が心奪われたのは花婿ではなく、自らの命を奪われないことでした。
そして、この異邦人達は自らが物を取られるのを惜しんでこの花嫁を脅迫し、答えを強引に引き出したものでした。
なんと浅ましいことでしょうか。この全ての問いは愛の内に豊かに解き明かされるべきであるのに、異邦人達は殺意で、そして花嫁は愛を売り渡すことで、サムソンからその答えを聞き出そうとするのです。
そして、この花嫁は神の選びの民であるサムソンとの結婚という途方もない恵みすら、他の者との結婚にすり替えてしまうのです。
そして、その結果は花嫁自らが恐れた死そのものでした。【士師記15:6】
私達は主の贖いという恵み、溢るる愛により、やがてこの主の花嫁となるという、人の考えでは決して及ぶことのできない愛の真実を知っています。
それが主に救われた者の最大の望みです。
しかし、もしも私達が目に映る金銀や物に固執するのであれば、この深遠なる愛の本質に辿り着くことはできないでしょう。
またもしも自らの命を惜しむのであれば、それは何を得たとしても、永遠の命を失うものであり【ルカ9:23-26】、また主イエスが私達に与えてくださった愛を売り渡すこととなるのです。

今、私達の心は何に奪われているでしょうか。
主の愛に永遠に心奪われることそれが、主がその命をもって買い取るほどに愛した花嫁である私達に、ふさわしい姿ではないでしょうか。

【雅歌8:6,7】
8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。


※今日の聖書箇所になります。ご参照ください。

【士師記14:18】
14:18 七日目になって、日の没する前に町の人々はサムソンに言った、「蜜より甘いものに何があろう。ししより強いものに何があろう」。サムソンは彼らに言った、「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、わたしのなぞは解けなかった」。

【エペソ5:31,32】
5:31 「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。
5:32 この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。

【ルカ22:18】
22:18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。

【士師記15:6】
15:6 ペリシテびとは言った、「これはだれのしわざか」。人々は言った、「テムナびとの婿サムソンだ。そのしゅうとがサムソンの妻を取り返して、その客であった者に与えたからだ」。そこでペリシテびとは上ってきて彼女とその父の家を火で焼き払った。

【ルカ9:23-26】
9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。

今日のかて 「罪を覆われし者」

【レビ記13:9ー17】
今日主が私達に語られるのは私達の罪の姿です。
レビ記は非常に難解に思われがちですが、それを丁寧に霊的視点で見つめていくのであれば、ただの律法としての形式の問題ではなく、私達の本質的姿が地上に現された型として語られています。
このツァラート(口語訳聖書においてはらい病と訳されていますが、正確にはその訳とは全く異なる病について書かれておりますので、原文と同様ツァラートという言葉で表記させていただきます。)の問題に関しては、ただ突然発祥するものではなく、これは神に対する人の罪がこのような表面に見える形で病として発祥したものとして聖書には語られています【民数記12:9-15】。
そしてその本質がここに、罪の現れとは如何なるものなのかという形で語られているのです。
ここにおいて、皮の下の「生肉」というグロテスクな表現に、目を背けずしっかりと目を向けるのであれば、
まさに人は骨に筋が与えられ、そこに肉を生じさせ、皮で覆ったものにすぎません。【ヨブ記10:11,12】【エゼキエル37:4-6】
私達はどんなに外見をきれいに見せていても、その内側には惨めなことに、罪を求めて止まない人の本質を宿しているのです。【ローマ7:22-24】
ですから、この罪が神により表面に現されているというのが、この病の本質となるのです。
主は罪を重ねる人に、このように御手を置き、さらに罪を重ね続けることがないよう、またこの罪が他の人々に伝え広がることがないよう、聖別の中で取り分け、ツァラートとなった者を宿営の外に出させたのです。
しかし、ここにこの病が全身を覆い白くなった時という不思議な記述を見るのです。
私達がどうしようもなく罪人であるということを知り、この事実を受け入れる時、私達はまるで全身が罪人のように、自らの罪を神の前に恥じ、悔い、苦しむことでしょう。
そして私達は一つの結論に達します。
それはこの罪を贖う贖い主にすがるしか、自らではこの罪をどうにもできないという結論です。
この時、私達はこの罪の自らを携えて、贖い主が待つ十字架の元に身をささげるしかないのです。
その時、主は私達の罪をご自身の十字架の上で流された血潮で真っ白に清めてくださいます。【黙示録7:13,14】
もはや主は私達の罪を見られることなく、主イエスの血を見て、私達を雪のように白いと言われるのです。【イザヤ1:18】
同時に主はこの私達を主ご自身と共に十字架につけられます。そして、私達はこの罪に死に、キリストに生きる者とされるのです。【ローマ6:3-11】
そして私達はキリストを着る者となります。【ガラテヤ3:27】
まさにキリストに覆われ、真っ白く罪を覆われた姿。何と主は憐れみ深い方でしょうか!
罪に覆われていた者が、限りない神の愛、十字架の贖いにより、真っ白いキリストを着る者とされるのです。永遠に。
ですから、私達はこの愛から一歩も出ないよう、この罪を重ね続けるような愚かなことを続けてはなりません。
覆われたこの方を、少しも脱ぎ捨てるようなことを続けてはならないのです。
私達の人としての弱さは、私達を罪に引き戻そうとするかも知れません。
しかし、私達はだからこそ、この十字架の元を一歩も離れはならないのです。
むしろ、この十字架の血潮の内に、釘づけられたキリストご自身の内に、この罪を悔い改める日々の中で、主を本当に喜ばせ、愛することのできる、全き聖いものとされることを、今心から望もうではありませんか。
多くの兄弟姉妹が、信仰の何かしらの活動や、善行、知識を蓄えることや、自らの信仰的に思える何かによって、クリスチャンとしてのクリスチャンらしさを手に入れようと努力します。
しかし、そのことでは、あなた自身の罪の本質は何一つ変わらないばかりか、積み重ねたあらゆることが全く神との関係を変えることなく、心に平安は与えられず、返って積み続けた努力の虚しさと疲れだけを重ねる日々となるのです。
そのため、心が塞ぎ込んで、表面だけでも慰められる、慰めの言葉を求め、その本質は癒えることのない罪から来る報酬としての死に、不安を重ねる日々が続くのです。
もしもあなた自身がそのような中に生きるのであれば、今こそ、命の本質から、新しくされるべき時です。今こそ、十字架の元に自らを携え、罪の根源ごと新たにされるべく、主の贖いの恵み、悔い改めの恵みを受け取りに行くべき時です。
この十字架の道を経ずして、私達は本来信仰者としての道を歩むことはできないのです。
愛する兄弟姉妹、神の民としての集まり、その宿営の中に永遠に生きるために与えられたただ一つの命への道、この十字架の元に今共に集おうではありませんか。

※今日の聖書箇所になります。ご参照ください。
【レビ記13:9ー17】
13:9 もし人にらい病の患部があるならば、その人を祭司のもとに連れて行かなければならない。
13:10 祭司がこれを見て、その皮に白い腫があり、その毛も白く変り、かつその腫に生きた生肉が見えるならば、
13:11 これは古いらい病がその身の皮にあるのであるから、祭司はその人を汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、これを留め置くに及ばない。
13:12 もしらい病が広く皮に出て、そのらい病が、その患者の皮を頭から足まで、ことごとくおおい、祭司の見るところすべてに及んでおれば、
13:13 祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。
13:14 しかし、もし生肉がその人に現れておれば、汚れた者である。
13:15 祭司はその生肉を見て、その人を汚れた者としなければならない。生肉は汚れたものであって、それはらい病である。
13:16 もしまたその生肉が再び白く変るならば、その人は祭司のもとに行かなければならない。
13:17 祭司はその人を見て、もしその患部が白く変っておれば、祭司はその患者を清い者としなければならない。その人は清い者である。

【民数記12:9-15】
12:9 主は彼らにむかい怒りを発して去られた。
12:10 雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、らい病となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女はらい病になっていた。
12:11 そこで、アロンはモーセに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちは愚かなことをして罪を犯しました。どうぞ、その罰をわたしたちに受けさせないでください。
12:12 どうぞ彼女を母の胎から肉が半ば滅びうせて出る死人のようにしないでください」。
12:13 その時モーセは主に呼ばわって言った、「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」。
12:14 主はモーセに言われた、「彼女の父が彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日のあいだ、恥じて身を隠すではないか。彼女を七日のあいだ、宿営の外で閉じこめておかなければならない。その後、連れもどしてもよい」。
12:15 そこでミリアムは七日のあいだ、宿営の外で閉じこめられた。民はミリアムが連れもどされるまでは、道に進まなかった。
【ヨブ記10:11,12】
10:11 あなたは肉と皮とをわたしに着せ、骨と筋とをもってわたしを編み、
10:12 命といつくしみとをわたしに授け、わたしを顧みてわが霊を守られた。

【エゼキエル37:4-6】
37:4 彼はまたわたしに言われた、
、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。

【ローマ7:22-24】
7:22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、
7:23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
7:24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

【黙示録7:13,14】
7:13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。
7:14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

【イザヤ1:18】
1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

【ローマ6:3-11】
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

【ガラテヤ3:27】
3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。

更新再開致します

しばらく、活動をご報告しなくなってから、今日までいかがお過ごしでしたでしょうか?
僕はこれまでの伝道の働きを滞りなく進めて参りました。
人に見えずとも進む神の働きに、心奪われ、気がつけば久方ぶりの更新となります。
ここに至るまで祈り支えてくださった皆様には心より感謝申し上げます。
またしばらく、ホームページを休止している間に皆様には大変ご心配をおかけしたこととも思います。
そういう意味では、休止中にも霊的な戦いは重なり、迫害の手は伸び、働きを破壊しようと悪魔は攻撃の手をゆるめようとしませんが、主ご自身が前を行き、全てに勝利し、全てを主ご自身の栄光と変えてくださるでしょうから、主の御手にゆだねて、更なる働きを進めて参りたいと思います。
ということで、改めて主の豊かな御恵みを、深遠なる主の御言葉の真理を、あわれみに富まれる主の御心を、ゆるゆると共に分かち合うページとして、再び書き綴ることを始めていこうかと考えています。
どうぞ、今後ともお祈りと共に応援のほどを、よろしくお願いいたします。

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます。
っと、突然の更新!
いったい何があったのか?
これは気まぐれか?それとも本格再始動ってことなのか?
疑問をいっぱい含めておいて
久々に更新再開のご挨拶です♪

あっ、やっぱりそれとなく再開なのね!
ということで、静かに静かにそれとなく何事もなかったかのように。

今年もよろしくお願いいたします。

pm2.5対策

黄砂と共に飛来してきたpm2.5。
健康にも重大な影響を持つと言われています。
それにいかに対策していくべきか。
昨日などは、関東でも空が黄色く幕を張ったように暗く覆われていました。
毎日外に出ると、服は塵埃だらけ。
叩けばまた埃舞い上がりいかにも体に悪そう。
洗濯をしても、服を外に干すのもこれではままならない。
どう対策すべきなのか?
顔や手はとりあえず帰ってすぐ洗えばいいとして。。。

うん?

あっ!

そうだ!

パンツ一丁で外出すればいいんだ。
そうすれば、家に帰ってシャワー浴びればすぐに済むことだしね!

でも要注意!
靴を履かないと外は歩けないよ♪
カジュアルならサンダルもOKだけど、普段靴を履くなら靴下も忘れずに♪


※この文章の中に大きな誤りがいくつかあります。よい子の皆さんはまねしないように。僕と握手!約束しよう!

ビバ!足湯!

最近足湯にハマってます。
何か楽なんですよね。何か他のことができるのに、お風呂に入っている気分になれる。
それでいて、全身が暖まるわけです。
特に足だけ湯桶に入れて、体は横になっているとさらにあっと言う間に全身が暖まるようで、これにハマってしまいました。
寒い季節はこれが一番。以外にも腰痛肩こりの原因が冷えだって言うことに気づいたりします。
全身リラックスでぽかぽか。
これからのシーズンにはあまり関係ないように思えるかも知れませんが、ストレス解消にも足湯お勧めです。

今谷川俊太郎さんがテレビに

失礼ですが、今も現存の方とは知りませんでした。
すごい詩人ですよね。
私もあこがれます。詩人という生き方。
教科書にも出てくる方なので、今もお元気でおられると知っている人も以外と多くないのではないかと思うのですが、そういえばどこかの新聞で連載されていたような、いないような。
とにかく、どんな方なのかこんなに動いて(失礼ですが)バラエティーに出ている姿なんて滅多にないことでしょうから、ちょっと興奮気味で画面をしっかりロックオンしながら見ていました。


で、詩人という生き方、やはりしてみたくなってます。
あるんだ、その生き方という感じです。
ゆっくり取り組んでみようかな。長い宿題のような感覚で。

バレンタインデー 肉♪

8d2e4e28.jpgバレンタインデー ニック♪
バレンタインデー 肉♪
バレンタインデー ニック♪
塩コショウかけて♪
シャララ♪ 素直に肉♪

ということで、バレンタインは肉もりもりいただきました。

もちろん、デザートにチョコいただいたんですけどね。
ただ、肉のインパクトが凄かったもので。。。

今日のかて 2コリント 4:16-18

だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
新約聖書 2コリント 4:16-18

新しい年を迎え、「今年こそは心新たにこれをしよう」とか、「全てを一新して歩んで行こう」だとか、いろいろな思いで一年を始めようとされている方もたくさん居られると思います。
ここで新しくしようと思われるのは心の一新とか、行い(つまり体)における一新を考えるというのが、人の考えるところの新しいというものでしょう。
これは気分によって変わるものであったり、また肉体的な問題、年齢的な問題などで、あるいはすぐにその新しさは色薄れるものです。
今年こそで始まるけれど、年の終わりには早く年忘れしたい、そんな移ろいやすい外面だけの新しさに、振り回されるような歩みを毎年重ね続けるのであれば、確かに私達の歩みはどこか虚しさの残る希薄なものとなるでしょう。
しかし、神を信じる者に与えられてる歩みは、決してそのような空虚なものではありません。
主は死を打ち砕きよみがえられた方。私達の歩む日々の歩みにはこのキリストと共にあるからこそ、死と復活を常に繰り返し迎えるのです。
私達を死の恐怖へ引き吊り込もうとする一切の現実、問題、困難は、つまりは私達全ての人が持つ罪の故に、死の報酬へと進むあらゆる現実は、全てがあの十字架の死と共にかけられる。
やがてそこにはよみがえりの絶大な力に満ちた、新しい命が常に溢れるのです。
そう、つまり主が与える新しさはその命そのものを新たにするという新しさ。私達の根底から全てのものを一新するという新しさです。
古きは死を迎え、よみがえりの命と共に全てが新しくなる。
どうしても罪を犯し続ける罪に満ちた古い命の持つ私達の性質は、その古い命と共に十字架にかけられて死に、よみがえりと共に与えられた新しい命にある、神の性質に預かる者とされた。
自分を中心に生きる肉にある生活から、新しい命である御霊に導かれ、神を中心に生きる生き方をする者となった。
暗闇から光の支配の下へ、死から命へ、サタンの支配の下からキリストの支配の下へ。
地上に生きる者から、天に生きる者へ移された。
一時の限られた時間を生きる人生から、永遠を生きる永遠の命を持つ者へとされた。
私達が新しくされたとは、このような最も深い根底から、完全に一新されたという、私達の理解をも超える程の意味を持つものなのです。
この新しい命をあなたは本当に味わっているでしょうか?
この本当の新しさを知るのは私達の内に生きる御霊であり、またこの新しい生き方を語るのは聖書の真理のみです。
つまりは聖書を読み、祈り、霊に満たされて、主に導かれて、主に従い生きる日々の中にしか、実はこの真の新しさを知る鍵はありません。
決して新しく見えない、近道などない、ごく当たり前に見える、日々の積み重ねの中にしか、本当の新しさは存在しないのです。
残念ながら、目新しい何かを信仰生活に求め、目に見える刺激的な何かを追い回し、この方が近道と言われるような生活を繰り返しても、そこに本当の新しさはない、虚しい信仰生活の繰り返しにしかならないのです。偽りの目新しさは私達を真の新しさには導かず、そこに残されるのは偽りの信仰生活のみであり、古い命に束縛された決して新しさにたどり着けない道のりなのです。
あなたの本当の新しさを知るために、ごく当たり前の生活から見つめて、新たに今日を歩み始めましょう。
永遠の新しさはすでにあなたの内に始まっているのですから。


愛する主よ。私達はあなたに、すでにその命ごと新たにされたのですが、その新しさを存分に味わい知ってはいません。目新しさを求めてはいますが、すでに与えられている命の真の価値を知らないでいるのです。どうか、永遠に生きる者として、天に生きる者として、その新たな命に生きる者として、目を開いてください。その目を、まなざしを、新たにしてください。そして、そこから新たな歩みを今日も与えて下さいますように。

今年もきれいでした

0be1e366.jpg今年も気がつけば、もう年末。
今日で今年にさよならです。
今年もいろんなことがありました。
みなさんも良いこと悪いこといろいろあったでしょう。
そんなこんなを含めて、今日はきれいな夜景をお送りします。
カレッタ汐留のクリスマスイルミネーション!
きれいでした。
これは舞踏会のシーンでしょうか。
また来年も良い年になりますように。

『一発逆転』人生塾 クリスマスの希望の光

希望の光はどこにあるでしょうか?
あなたはそれをどこへ探しに行きますか?
クリスマスシーズンにはイルミネーション輝き、あるいはキャンドルの灯火がクリスマスムードを高めてくれるかも知れませんね。
しかし、あなたの人生そのもの、命そのものに、希望を灯す光を探し出すのは至難の技です。
クリスマスが終われば消えてしまう輝き。でもどこかに希望を感じているからこそ、人はこの灯火に心惹かれるのでしょう。
さあ、その灯火をどこに探しに行きましょうか?
その灯火は案外あなたのすぐ近くにあるのをお気づきでしょうか?
クリスマスはあなたの人生に救いを与えるために、あなたの救い主が誕生したことを祝う日です。
どのような闇も勝つことのできないまことの光、命の光がこの地に来られました。
それは救い主イエスキリスト。
それはあなたの中の闇を、あるいはあなたを取り囲む闇を、すべて飲み込むまことの光。
私達の心を覆う闇、それは不安、それは恐れ、それは悲しみ、それは悩み、それは絶望、、、それは罪。
この闇をどうにか取り除きたくて、誰もが本当は希望の光を探し求めている。
そう、だからあなたのために、このまことの光は救い主として、この地に誕生しました。
神である存在(神の御子である存在)が人の姿となられて、無限の存在である方が、あまりにも無力な人間の姿として、この地に来られたのには訳があるのです。
彼の誕生は、今クリスマスが祝われているほど華やかなものではなく、もっとも暗く、汚く、臭い、人がおよそ誕生するべきではない場所でした。
それは家畜小屋。
この地には彼の誕生を祝う者はなく、ただほんの一握りの人々にしかそれを知らされませんでした。
それは、当時の最も貧しく過酷な労働を強いられていた人々(羊飼い)や、当時の宗教背景はユダヤ教でしたが、宗教的にはそれとは全く関係のない人々(異邦人)でした。
彼の特殊な誕生劇は、私達がどのような背景の人生を歩んでいても、どんなところに生きている人であっても、彼があなたの救い主となるために、最も低く卑しく貧しい者となるための誕生だったのです。
およそ、その人生において私達が負うべき全ての重荷をご自身で負うために、神は彼がこのように誕生することを望んだのです。
だから、その知らせはごく一握りの人にしか知らされなかった。
しかし、その誕生を見ることができた、貧しく小さく卑しい者達には、この救い主の誕生は神からの人類最大のプレゼント受け取ったこととなったのです。
この救い主に出会うために、何か偉くなる必要や、修行する必要や、努力の積み重ねで到達する必要はないということをこの誕生の事実は物語っているのです。
人は神に出会うために、何か天に居る神の所までよじ登らなければならないような、そんなイメージを抱きがちです。
だから限られた修行をした人とかしか神に出会えない気がする。救いがない気がする。確かにそれが宗教です。
ところが、神はあなたに出会うために最も低い所にまで降りてきてくださったのです。
どこを探し回る必要もありません。
救いの光はあなたのすぐ近くにあるのです。
あなたが主イエスキリストをあなたの救い主として信じ、あなたが受け入れた時に、全ての闇を飲み尽くすまことの光は、あなたの内側に命の光として、光を灯すのです。
そう。この時あなたも人類最大の神からのプレゼント受け取ることとなるのです。
あなたもその本当のクリスマスプレゼントを受け取りたいと思いませんか?

《新約聖書 ヨハネの福音書 1:1-5,9-13》
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
-中略-
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

巨大ハンバーグ

cb979247.jpgどうでしょう?この巨大ハンバーグ。
いまいち大きさが伝わっているか疑わしいのですが、思っているよりかなり巨大だと思っていただいて間違いはありません。

もちろん一人で食べたわけではないですよ。
一人でも食べれますけどね。
でもみんなで食べると、また格段においしい。

ということで、クリスマスを前に、おいしくいただきました。
ごちそうさま。ありがとうございました。

今日のかて ヨハネ 4:10-15

イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
新約聖書 ヨハネの福音書 4:10-15

神がどのような方であるかということを知ることは、とても重要なことです。
多くの兄弟姉妹が神に何かの問題について祈った後に、「主よ。その問題をあなたはどのように解決してくださるのですか?」と訊ねます。
さらに自分でその願いを神がどのように叶えてくださるかの方法論まで、細かくシュミレーションまでしてしまいます。
つまり神はこのような方法で、この願いを叶えてくださるだろうと。
しかし、そのことは無限の神を、小さな小さな人間の知恵の中に、閉じこめてしまうことになるのです。
主はどのような方でしょうか?
主は永遠の命そのものである方です。
そして、私達の全ての渇きを私達が主に訴える前から、主は私達に何が必要か知っておられ、それを完全に満たそう、いや永遠に満たし続けようとされる方です。
その方法は人の手を何一つ必要とすらされないのです。
その綿密な計画は私達の計画よりはるかに高く、私達の理解を超え、想像を超えた、完全なもの。

《コリント人への手紙 2:9》
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

つまり、私達がどのように神がなさるかということに口を挟むのは如何にも愚かしいことです。
もしもそのようにするのであれば、私達は自分の思いを、神の御心に対立させるという恐ろしいこととなり、時にはその結果として自分の思っていたことと結果が違うと、自分の思いで自らを傷つけることさえあるのです。
主は初めであり終りである方なのです。
主に全ての始まりを委ねるのであれば、主がその結果をも負われ完成されるのです。
主は義であり、愛である方だからこそ、一度ご自身が始められたことを完成しないでは居られないのです。
主は完全な方であるからこそ、私達への主の計画も完全であり、主が善である方であるから、その計画は最善であるのです。
主がどのような方であるかを知り、全ての思い煩いを主に委ねましょう。
主ご自身があなたのことを心配してくださっているのです。
この方こそ、天地万物を治められる主なのです。
その方があなたにやさしく伸べている御手に、あなた自身を委ねましょう。
主があなたの揺るぎなき人生を完成してくださるのです。


愛する主よ。小さな私達の心をあなたに明け渡します。私達の心を広くしてください。無限であり全能であるあなたを知ることができるよう、思い煩いや貧しい想像で狭くなった私達の心を広くしてください。恐れるのではなく全幅の信頼をもって、あなたに全てを委ねさせ、あなたの無限の恵みに安らぐ者としてください。私の生きる全ての時で、主を知ることは、私の最上の喜びなのです。あなたを知り、あなたと共に歩む日々をお与えください。
主イエスの御名により。アーメン。

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表参道ヒルズイルミネーション

cf219537.jpg表参道ヒルズのイルミネーションはまるで舞踏会のようにきれいでした。
およそ15分おきに、光と音の舞踏会が始まるようです。
ここでデートしたら誰でも王子様・お姫様気分になれるね♪

ということで、久しぶりに満足のイルミネーションでした。

究極の癒し

やっぱり、温泉はいい。
わざわざ温泉に入るために旅行に行くのもいいのですが、最近は東京近郊の温泉に入っている。
これがまたいい。
温泉に入って、すぐに帰って家で寝るというのはある種癒しの究極の願望を満足させる。
さらに中の施設が充実していて、食事などもできたり、マッサージや仮眠などもできればなお良し。
ということで、今日も温泉に行っていきました。

長湯に浸かると、芯まで疲れが癒されます。
特に頑固な肩こりとか眼精疲労とか。取れにくいテクノストレスとはこれで一発で吹き飛びます。
いいですねぇ。

でブログとか更新して目疲れさせてどうするの?
では、ということで今日はこの辺で。。。

今日のかて マタイ6:19-21

《マタイ 6:19-21》
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。

私達の信仰者としての歩みはどこを見ているかに拠ります。この地上に何を作り、何を積み上げ、心の支えや誇りとしても、それらは儚く消え去るものです。
どれほど、地上で能力があっても、経験があっても、地位があっても、経済的に豊かであっても、どれほどの素晴らしい物達に囲まれていても、それがどれほど確かに見える、自分の将来を保証してくれるように見えたとしても、それらは御言葉のように「虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出す地上」に積み上げる物は、いとも簡単に儚く消え去る虚しいものに過ぎないのです。
ならば何をするために生きているのかと、逆に目的を失い、虚しく悲観的になる必要はありません。
確かに聖書においてこの世と言われている、この社会における価値観では、地上に結果を出す、積み上げる以外に生きる目的が見えないでしょう。何せ、天を知らないのですから。
天の存在を知ることができるのは、主イエスを信じ救われて新しい命に生まれた者だけです。なぜなら、私達の内に生きる命、聖霊は天から下られた霊であり、だからこそ、私達をこの地上に生きているこの時でさえ天にある者と等しくされるからです。

《1コリント 15:42-50》
死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。
第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。
この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。
すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

地上にある命はやがて朽ち果てますが、この天から降って私達に与えられた、天からの新しい命は永遠に朽ち果てることはありません。
そしてこの天から来た命は天に属する者の性質を持つために、私達に天を見させ、天を味わい知ることを与えるのです。
そして、この天こそ永遠という、終わることのない、限りのない、つまり時間というものを超越した場所であり、そこにあるものは全てが永遠の中に変わることなく存在するのです。
私達はこの天を見ることができるのです。

《2コリント 4:16-18》
だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

私達はこの天を見る時、そこにある永遠の栄光を見ます。私達がどのように生きるとしても、地上に宝を積むよりも、天に積まれる宝の素晴らしさに、地上では味わうことのできない喜びを知るのです。
主の御心を行い、主の栄光を求めて生きる時、地上に何が起こることよりも、天においていかに栄光に輝く宝が積まれているのかということの方が、はるかに価値ある生き方であるということを、内から溢れ出てとどめられない程の喜びのうちに、確信するのです。
私達に与えられている命は永遠です。終わることのない永遠の人生を歩む私達にふさわしい、価値ある歩みを求めましょう。
昨日とは違う、あなたの日々の過ごし方が今日から始まるのです。


愛する主よ。まだ私達には、あなたが与えてくださった永遠の命の本当の価値がわかりません。それは知性では理解することのできないほど、絶大な価値を持つからです。この命を持つにふさわしい歩みを私達に教えてください。天的喜びの深さを存分に味わい知る者としてください。私達に天に宝を積む喜びを教えて下さい。あなたがそのことによって喜びを得てくださいますように。
愛する主イエスの御名によって。アーメン。

ドライもん

のび大「ドライも〜ん!またジャイアントにいじめられたよ。助けてよ〜。何か、ギャフンと言わせられるものを出してよ〜〜〜〜。」

ドラいもん「・・・」

のび大「ねぇ。何とか言ってよ。ドライもん。」

ドラいもん「・・・・・・」

のび大「どうしたんだよ。ドラいもん。ドラいもんも悔しくないの。ジャイアントがひどいんだよ。」




ドライもん「もう、5時すぎていますので。残業はいたしませんので。あとはご自分でよろしくお願いします。」

のび大「あっあっそこがドライだったんだ・・・。ビジネスだったんだ。それっ・・・」




※秋になりましたので、新しいドラいもん登場してもらいました。
お後がよろしいようで。

花咲くガンダム

b6c6b65e.jpgいやぁ、またお台場にガンダムが戻って来たと聞いていたので、とうとう念願かなって、行ってきました。
「やっぱり、等身大ガンダムはでかいねぇ」とか言いながら、話に花が咲いていました。
が、何とガンダムにも花が咲いてしまいました。
なっ、なっ、何ということでしょう。

戦闘用モビルスーツという決してラブリーではないものが、フラワーでラブリーになっています。

ということで、気になる方は実際にその目で見て、話に花を咲かせ、またガンダムに花を咲かせてみてください。

ひとり縁日

駅前にいつも出ているお好み焼きとたこ焼きの屋台。
たまにどうしても食べたくなるときがある。
特に、ここのところ気温が急に下がってきて、ちょうど誘われる感じ。
で、買ってみた!

クリスチャンはお祭りには信仰上あまり行かないので、縁日にはかなり縁遠い。
なので、こういう機会に、妙にテンションが上がってしまう。
せっかくなので、このテンションに応えるべく、ガードレールに腰掛けながら、外で食べた。

うん!いい感じ♪
プロフィール
Taka♪

新橋駅前広場にて、人生の真実を叫び続ける伝道者、ストリートメッセンジャーのTaka♪です。
Taka♪Profile

ホームページ
『一発逆転』人生塾
http://119.go2.jp

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